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上達への道

このコーナーでは、本部発行のスポチャンメールマガジンで掲載中の田邊哲人先生のコラム
「勝つための技 伝授」を掲載しています。

上達法 其の一

 絶対に打たれないよう普段の稽古中に考えながら行うこと。先に打てば良いとか早く打てば勝ち、だとかではない。いかなる時でも『相手に触れさせない事』これに尽きる。

 どんなに早く打っても、どんなに強く打っても、自分も打たれていれば実戦では大ケガである。足打ちを狙って上手く”足打ち”を出来ても、若干でも遅れて打ってきた相手の頭打ちが当たれば、 本当の勝利ではない。面(防御面)が曲がる程強い面を頂戴すれば、実戦ともなれば即死である。是非とも頭部など打たれないで相手のポイントを的確に打つ練習を繰り返し習得して貰いたい。

 初心者に一番多いのが、打つ事に夢中になってディフェンスを忘れる事である。幸いにもエアーソフト剣であるからケガは無いが、指を2,3本かすっただけの剣でも「その手は使用できないぞ!!」くらいの緊張感を持って練習をする事が上達の早道である。

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上達法 其の二

 スポチャンの世界に「面数 めんかず」という言葉がある。

 これは、面をつけた数、すなわち稽古量の数を言う。稽古の数とは長年やっていれば強くなるという事ではない。いろいろなスポチャンの競技会に出場し、いろいろなキャラクターの強豪と剣を交える事である。

 書物を何百・何千冊読破しようが、読むだけならば「机上の空論」で、実際には何の役にも立たない事に気づく。すべて自分流に工夫して、自分の技を体得する事が大事なのである。最終的には他人に教えて貰える事は、何一つ無い。自分の長所を知り、自分の短所は自分で知るのである。

 日本人は「教えられ過ぎ」である。「教える」と称して実は「押さえられている」事が多いことに早く気づき、そして早く自由になる事だろう。教えられている呪縛から心身共に自由になれば、必ず強くなり、そして今まで見えなかったものが、やがて見えて来る。

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上達法 其の三 「勝ってよし」「負けてよし」「見てよし」

 何事でもそうであろうが「見てよし」と言うのは良いものである。見ている者が爽やかさを感じ好感が持てるという事は、スポーツマン精神の現れである。

 スポチャンに「勝ってよし」「負けてよし」「見てよし」という「よし」がある。別に喧嘩をしているわけではないから勝っても負けてもそんな事は良いではないか!爽やかな”カッコマン”の方が皆にも好感を持たれるのである。

 そう言う中での華麗な打法とは、強く打つとか弱く打つとかの力の加減は当然、手の内の操作で出来るのだが、全体の流れの中でスピードとタイミングに基調を置いて試合作りをする事である。スポチャンが「スピードとタイミングの祭典」と言われるのは、この華麗な美しい姿勢にある。

 其れを周囲に伝播させる方法は簡単である。まず、自分がスポチャンを楽しんで競技することである。勝ち負けなんて、そんな事より皆が「見てよし」の試合をしよう。負けてグチグチ言っているのは、聞くに忍びないスポーツマンの最低な心構えなのである。

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上達法 其の四 「初一本の心得」

 試合に於いて、初めの初太刀で勝負が決まることは多い。「物」を使った勝負は以外と早い。古くの様々な実戦例を精査しても、最初の一太刀、一突きで勝を制したものが多い。従って【初一本】の重要視は、スポーツ武道とはいえどかなり比重は高い。スロースターターの習慣は、時として危険である。”【初一本】の大事 ”の励行は、気迫の充実を養い、緊張を高める。そして、【初一本】は、あまり無駄な打突や動きをしない事である。

 相手が技を起こす瞬間、技が尽きたところ、居ついたところなどを瞬時に打つ。これは《打機三処》とも言うが、対人競技においては、基本的な《打処》である。ただその瞬間は、極めて少ない小さなスキであり、競技会でも上位に勝ち進んで行けば行く程、達人を相手にするわけであるから、そう簡単には打たせてくれない。従って焦らず、恐れず無駄打ちをしない【初一本】の気持ちで正確な打突を心掛ける。

 スポチャンは、スピードとタイミングの勝負であるから、常に相手のスキを見逃さないタイミングに自然と身体が反応する様な練習が肝要である。数打てば当たるというものではない。如何に気迫の充実した瞬間が大切かという事である。

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上達法 其の五 「短刀と蹴り」

 短刀は他の得物と違い、投げ技・蹴り技・捻り技なども使用できるが、これらの真正技はダウン以外は有効打と見なされないので注意が必要である。蹴り技などの真正技を有効的に繰り出すことにより、剣での一突きが決まるのだ。蹴りや投げは過信してはいけない。短刀は実戦では一突きで生命を奪う威力が有ることを忘れてはならない。

 短刀でのこのルールは競技者に恐怖心をも与える場合が有るが、それらを克服する事に主眼があるので怖がらずに行うことが良い。また接近戦になる短刀では、完全のデフェンスを心掛け、見切りの技などを鍛錬するのが良い。デフェンスの中から相手のスキが見えてくる。

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上達法 其の六 「手の内と華麗な打法」

 手の内とは、広義には試合運びや心遣いを言うこともあるが、狭義では剣の柄の握り具合と打つ加減を言う。

 初歩の段階ではまず、手首の回転、スナップを利かせた効果的な強い打突ができるように訓練するのだが、その目的が一応達成したならば、今度はその状況に相応した力加減、すなわち「手の内」の加減ができなければならない。

 初歩の護身のための「強い打突」から→練達した「軽快な打突」→そして、卓越した「華麗な打突」と変化上達する訳である。これは世界のいかなる武道でも共通である。

 特に有段者は「軽快な打突」としてこの手の内を覚えねば、ただの「撲り合い」の指導のみに終始、粗暴さのみが目立つこととなる。

 「手の内を締める」とは当たる瞬間に小指と薬指、中指をキチッと締め、強い打突も、柔らかい打突も自由自在ということである。あえて強く打突する必要も無いのだ。

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上達法 其の七 「紙一重の見切り技」

 日頃の稽古ではこの「見切り技」の訓練に終始すると言っても過言ではない。相手の剣を紙一重で華麗にかわす。軽快なフットワーク・ボディワークで空を切らせる。こういう見切り技が出来るようになると、これ程楽しい対戦はない。

 美しい戦いとは相手に触れさせないこの見切り技のテクニックにある。その習得の方法は 相手の前後左右、上下の攻防に対して先を読むこと。「相手の心を見切り、空を切らせてその瞬間」これが計算し尽くされた技である。

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上達法 其の八 「打つ」と「当たる」ということ

 「打つ」ということは、”意志を持って相手の打とうと思った部位を打つ事”であるが、時には打とうと思っていない部分に「当たり」「当たられる」事もある。意に反する偶然の「当たり」でも実際の勝負はつく。実践には「偶然」も「まぐれ」もない。結果こそが勝負なのである。実践では例えば顔をかすった位でも、武器に依っては致命傷となる事もあろう。

 どのような「当てられ方」でも常に意識し、時差で入ってくる相手の打撃にも油断してはならない。「勝った」と自己判断してしまい、その後の防御をおろそかにする習慣は危険である。打たれることを防御するのは当然だが、打突後の防御も当然なのである。

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其の九 「打機三処」

 相手を打つ機会は様々であるが、打たなければならない機会は三つあるという教えである。

 一つ目は、相手が構えた処である。まだ打気が満ちていない、気の抜けた状態を素早く読みとり、それに対し自分から技を仕掛ける。これを「先」また「先占」(せんせん)という。

 二つ目は、「先の先」これは、相手が「技」を仕掛けようとして、動く「起こり」を捉えるものである。瞬間的には「先」の様に見られる場合もあるが、動き出す(動かされる)瞬間を捉えるもので、例えば、扇打ちの小手などは特に有効である。まだ仕掛けられないうちに、こちらから「技」を仕掛けること、 常に自分の間合いで動き、相手の心や態勢の準備が整う前に、仕掛けさせるようにしむけるのが重要である。

 三つ目は、「後の先」これは相手が攻撃してくるのを待って、「抜く」「かわす」「受ける」などによって相手の技を殺し、受けたあと、相手の体の崩れを利用して反撃することです。相手に先を取られるのではなく、相手の行動から、相手にスキをつくり、自分に有利な状態に持っていくものである。

 また、さらに修行を積むことにより、相手の技の尽きた処。相手の剣を見切り、空を切らせて、その瞬間を打つことは、護身道の真髄であろう。

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上達法 其の十 「残心と油断」

 残心姿勢とは自信を持って打った勝利の姿勢であり、勝者の表現といえるが、この姿勢にあっても、いささの気のゆるみがあってもならない。

 古くより「残心」とは勝敗が決したと思っても事象に注視、心を残し、最後まで気のゆるみを戒めて言ったものである。
 しかし、日本流は残心の姿勢と称し一定の型に当てはめる傾向が見受けられ、大仰に残心姿勢として演じ、その最中を相手に打たれるなど愚と言わざる得まい。残心姿勢とは歌舞伎役者の見得の如きものではない。油断を戒める心の持ち方を言ったものであるから心中以意という姿勢が良い。

 残心姿勢の油断を打たれれば、あきらかに一本となることに留意する。

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上達法 其の十一 「沈み技」(足打ちの極意)

 「足打ち」は大変有効的な技である。事実、各大会をみても、40%強が足打ちでの一本奪取である。他に、小手打ち、面肩打ちが40%、あとは胴打ちやその他が少々である。足打ちは世界を制する技ともいえる。
 身体の小さな牛若丸が弁慶を倒した技とは正にこの「足打ち」であり、小の者が大の者より利するのはこの「足打ち」にある。

 相手の生命を損ねず、自由を奪う極めて効果的な技で、狙いどころは内ヒザやクルブシなどの関節や骨のあるところである。

 打ち込む場合は、充分に腰を落とし、左足をまっすぐ伸ばす。ヒザからクルブシくらいまでが狙うポイントである。

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上達法 其の十二 「発声と呼吸法」

スポーツの練習で特に大切なことは呼吸法である。

 呼吸法を無視したトレーニングは、むしろ身体に害を与えることもある。息苦しく倒れ込む程の打ち込み稽古や、罰則の如きマラソン、炎天下で長時間の過酷な訓練などは、体調の悪い時は特に危険である。精神教育や、根性を植え付ける教育は注意を要する。世界の剣術として「自由で健康的なスポーツ」として発展するためには、老若男女が楽しく修行できるものでなくてはならない。

 苦しい修行も時として良い効果をもたらすのであながち否定はできないが、掛り稽古と称して一気呵成に5〜10分打ち込ませることがある。体力向上は理解できるが、息もつかせず打ち込ませることは体調を崩し息が上がって苦しくなることが多い。

 酸素を多く取り入れる呼吸方法を考えながら常に体調を崩さないことが大切である。大きな声を出すことは、肺が快活になり身体に良い影響を及ぼす。武道の「気合い」という発声は極めて理にかなった呼吸法である。臍下丹田(せいかたんでん)より清々と発する気合いは、五臓六腑の体の隅々まで新しい酸素を入れ、新陳代謝を促す。また技術的には、打つ時に息を吐き出す気合いは無声より数段の威力があると言われている。

 気合いには「腹中無声という気合い」も「発声という気合い」もある。ボクシング競技のノックアウト・パンチが必ずしも発声という気合いを持って倍増しているとは考えられない。また、野球のホームランやゴルフのスィング時に、豪快な気合いが距離を伸ばすというわけではない。

 しかし、対人競技の場合の気合いは、自からの勇気を奮い起こし、相手の気勢を折り萎縮させ、さらに気力を充実させ、四戒を払うなどの利は多大である。昨今打つ時に発する気合いはその打撃部位を呼称する事が多い。例えば、メン!とかコテ!アシ!である。

 健康的なスポーツとして、至極自然に発声するという事が、一番良いと思われる。(しかし各国においては声を出す習慣の無い所もあり無理強いはしない等の留意が必要である)

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上達法 其の十三 「一寸当止め(いっすんあてどめ)」ということ

 おしなべて一言で言って、大方が槍は下手である。基本的な使用方法を習得しないまま、長いから有利だと思い違いをして槍を持つのだが、長いが故にその長さが逆に手に余るのだ。

 槍の刺突部というのは丁度リンゴ程のポイントしかない。その小さなポイントに正確に突き入れるのであるから、そう一朝には行かない。至近距離になればなったで思うようにポイントに入らないし、遠距離なら尚更である。たまに入れば大方がまぐれ当たりである。双方がこのまぐれ当たりを期待して、突くのであるから見ているのは辛いものがある。

 槍の突くポイントは言うまでもなく、面と胴と足の薙にあるが、特に見ていて興味があるのは胴突きである。仔細に言えば、左構えの場合は相手の心臓部である。相手の左こぶしを起点とし、その上は上胴(うわどう)と言い、その下は下胴(したどう)という。上胴の俗に言う脱突(だっとつ)という、左手の上腕部のくの字に曲がった肘の内側に投げ入れるのであるが、これが心臓部を刺突したという事で、一本となる。この時でも留意すべきは、[ 一寸当止め ]の使術が肝要である。

 槍先が裏に抜ける様な、破れかぶれの突き方、また槍先の行方が本人にも判らないような突き方、絶妙なタイミングがない故に、槍の試合の興味は半減してしまう。

 互いに一寸の小さなスキを射抜いて、間髪[ 当止め ]、そして静かに残心を示す等、レベルの高い試合を見たいものである。

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