誕生、そして告知

 平成16年2月22日午後4時51分、1676グラム、40センチの男の子は、産声なく産まれた。そのままNICUへ入院となった。後になって知ったのだが、心臓しか動いていなかったらしい。すぐに挿管され、人工呼吸による呼吸がはじまった。
 処置が終わって、小児科の先生から夫が呼ばれたのは、10時近かったと思う。そのとき、夫には病名の告知があったらしいのだが、まだ私は知らなかった。翌日導尿カテーテルがとれたら会えることになっていたので、夫からは出生体重と身長をきいた。「へその緒が細いか、胎盤がちいさいか」と妊娠中に言われていたのだが、聞いたことはそれだけだった。確かに夫の様子も少し変ではあったのだが、出産を終えた達成感で周りが全く見えなかった。。
 翌日、カテーテルがとれ、大袈裟にも車椅子にのってNICUへ入った。修太は保育器に入っていた。足、手から点滴が入り、口からは人工呼吸器の管が出ていた。すごく小さくて、医療によって生かされてる、お世辞にも元気な赤ちゃんではなかった。元気に産んであげられなかったことが申し訳なくて涙が出た。その場に10分と居られなかった。
 今思えば、あまり動かない赤ちゃんだった。でも面会は楽しかった。入院が長引きそうなので、「面会ノート」がつくられた。名前も決まって、後は体重さえ増えたらすぐ退院できると思っていた。
 何日か過ぎ、私のおめでたさに終止符を打つべく、「先生からのお話」の時間が組まれた。私の退院の2日前だった。奥の部屋に通され、そして、コルネリア・デ・ランゲ症候群であることを告げられた。病気の説明、これからのことを聞いて、赤ちゃんが生きて産まれてきた喜びは音を立てて崩れた。涙がいっぱい出た。「どうしてうちの子が?夢であってほしい」そればかりが、頭の中をぐるぐるまわる。そして、育てていく不安にどうしていいのかわからなかった。そんな私の話を産科の助産師さんたちはやさしく聞いてくれたことを覚えてる。障害のある自分の子供を育てていく不安。その不安を早く解決するために、なんでもいいからとにかく情報が欲しいと思った。
 そして退院後、実家にしばらくお世話になり、その間、時間さえあれば、病気のこと、同じように障害を持っている子供のご両親の作るホームページなど、インターネットでとにかく調べた。親御さんの作るホームページはどれも、とっても愛情に溢れていた。どうしたら私もそうなれるのかを知りたかった。早く修太を心の底からかわいいと思いたかった。でもあの時は、顔や身体の特徴を否定するものばかり探していた。そればっかり考えていて、なかなか前へ進めず、保育器の前や面会ノートを書きながらよく泣いていた。
 

修太の病気を受け入れる

 まだ修太の病気を受け入れることのできていない4月、ABR検査(脳波で聞こえをみる)が行われた。耳の反応がよくないことはうすうすわかっていた。案の定、結果は悪かった。病気のショックも癒えないうちからこんな結果を聞き、目の前が真っ暗になった。日本の医療水準の高さも憎らしく思った。
 しばらく落ちこんで、誰かに話を聞いて欲しいと思っていたとき、修太より1ヶ月早く産まれた、出生体重が760cのスーパー未熟児くんのお母さんとお友達になった。彼女も25週という早産によるリスクや呼吸器の使用が長かったことで、とても悩んでいたことを、その時聞いた。置かれてる状況は違うものの、悩みや不安を打ち明けて励まし合える友人ができたことで、私はとても前向きになれた。さらにその後には、染色体を起因とした障害のある子のお母さんとも、NICUの中で知り合った。お互いに、そうたくさんある病気ではないはずなのに、同じ時期に同じような悩みをもって入院している人がいると知って、とても楽になった。
 そして、修太と同じデ・ランゲ症候群の子とも偶然知り合うことができ、お母さんとお互いの子供の様子や病気の情報を交換したりした。何より彼女は障害があること以前に、自分の子としてとても愛情深く接していた。彼女のそんな姿に私はとても励まされた。私は、修太の経管栄養のチューブがイヤだった。鼻から出てるあのチューブで、修太は障害のある特別な赤ちゃんになっていた。けど、そんなことはどうでもいいんじゃないの?それも修太の個性の一つじゃないの?そう思えたとき、私の中の修太は普通の赤ちゃんになった。相談に乗ってくれる人がいっぱいできたことで、私は一人じゃないと思ったとき、すごくいい出会いや、とても尊敬できるお友達をくれた修太の存在に感謝した。こういう人生も悪くないかな、と思えた。