NICUに通うお母さんを経験


 NICUに通うお母さんは母乳を運ぶ。搾乳した母乳は市販の母乳バッグに入れて、運ぶ。3〜4時間置きに搾乳して、冷凍して、搾乳に使ったカップを洗って…。これを繰り返す。退院してから5ヶ月に入るまで、私は1日6〜7回搾乳していた。毎回、毎回、退院の日を考えてやっていた。でも、5ヶ月を過ぎた頃からだんだんその生活に疲れてきた。「退院」を目標にやってきたが、なかなか見えないゴールに苛立ち始め、1ヶ月ごとに搾乳の回数を減らし、とうとう平成16年の大晦日、断乳した。まさか入院中に母乳を終えるとは思わなかった。
 NICUで知り合った友人たちもなかなか退院しないしゅうたのことをとても心配してくれていた。退院していった子たちの外来受診と私の面会が重なった日はよくおしゃべりをしたが、私の手元にしゅうたがいないことでとてもとてもさみしかった。NICUの中でも、一通り友人たちの赤ちゃんが退院してしまえば、しゅうたとずいぶん月齢の離れた赤ちゃんとお母さんたち。幸太を外へ遊びに連れて行けば、元気な赤ちゃんを連れたお母さんたち。秋から冬にかけて季節と同じように私の気持ちもすごく沈んでいた。そのころ丁度、NICUからGCUへお引越ししたこともあり、新しい環境にあまりなじめず、苦しいときに苦しいと言えない状況にあった。
 
 そんな頃、小さなきっかけがあった。障害を持った子たちとその親が集まる場に顔を出すようになった。みんなの手元には子供がいるけど、私の手元にはしゅうたがいない。苦しかったけど、それ以上に同じ立場の人たちと関わることですごく楽だった。しゅうたの話をしても「かわいそう」といった顔をしないで私の話を聞いてくれる「場所」、「人」がすごくうれしかった。「かわいそう」な視線をNICUや引っ越したGCUでもよく浴びていた。自分の気持ちのはけ口ができて、ありのままのしゅうたを受け入れることができるようになったのはこの頃からだ。丁度その頃から、作業療法も始まり、しゅうたはみるみる成長するようになった。目に力を感じるようになった。私をみて笑ってくれるようになった。もう大丈夫。そう思える日がやっと、きた。

 しゅうたが産まれて私は知らなかったことをいっぱい知ることができた。もちろん、誰だって元気な赤ちゃんを産むことを望んでいるし、私の知ったことは知らなくてもいいことかもしれない。私の母はしゅうたの耳に重い難聴があると知ってすぐ、手話教室に通い始めた。しゅうたが元気な赤ちゃんであったならば、別に通うこともなかったと思うし、通ったとしてもこれほど一生懸命手話を覚えようとはしなかったと思う。今、母はその教室で知り合った人たちと楽しく交流し、手話教室を修了したあと今度は手話サークルに入った。母は教室で覚えてきた手話を、私が病院へ行っている間に幸太に教えていた。幸太はその手話を楽しそうに家で私たちに教えてくれる。これはしゅうたに難聴があったから。元気な赤ちゃんだったら?また別に面白いことがあっただろうが、きっと「普通」の生活をしていたと思う。私は「特別」という言葉にとても敏感だった。でも、その「特別」がマイナスなことばかりでないからこそ、少しだけど強くなれたかなぁと思う。