2014年3月2日:説教概要
「祈りの家」
マルコ11:12−25
イエスさまと弟子たちはべタニヤからエルサレムに行く途中、空腹を覚えられ、いちじくの木を見て近づかれた。ところが、そのいちじくの木は葉ばかりが繁っていて実がまったくついていなかった。イエスさまは、その葉っぱばかりで実のないいちじくの木に向かってこう言われます。「今後、いつまでもお前の実を食べることのないように」・・・激しい言葉です。
しかし、13節の言葉、13節の最後の言葉をみると「いちじくのなる季節ではなかったからである」と言われています。いちじくのなる季節でないなら、実をむすんでいないのが当たり前であり、むしろイエスさまの態度の方がおかしいのではないだろうか?・・・このいちじくの木に関して、20節でもう一度言及されています。
つまり、15節から18節までがいちじくの木に関する出来事の間に挿入されているんです。ですから、この箇所を理解するのに15節以降の箇所を見る必要があります。イエスさまは二つの意味をもってこのことをなされたということです。
一つは、15節から18節における「宮きよめ」との関連においてなされています。見た目には葉が覆い繁り、豊かな実をつけているように見えるいちじくの木・・・しかし、葉ばかりで一つも実がない。当時のイスラエルも外面的には栄えていました。大きなすばらしい神殿、祭司はじめパリサイ人の巨大な宗教的権力をもって多くの儀式が行われていた。
しかし、悲しいかな神への礼拝、貧しい人々に対する配慮はまったくなかった。外見とは裏腹に内面は・・・霊的に衰えていた。荘厳な神殿の中で、さも敬虔そうな人々が神様を礼拝に来ているとしながらも、まことの礼拝がそこにはないことを見られた。神殿がただやかましい喧騒に満ち、欲望と利益を満たす場になりさがっている。17節には「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。神殿は、教会はすべての人が招かれる所であり、そこでは誰でも差別なく礼拝できる場所である。
しかし、一番外側の異邦人が礼拝する庭で売買され、異邦人はその騒々しさのため礼拝できない有様である。神さまはすべての人を招こうとしておられるのだから、誰かの礼拝を、祈りを妨げたりするならば、そこには神さまはおられない。17節の後半で「あなたがたは、それを強盗の巣にしたのです」と嘆かれるんです。
神殿とは、教会とは何かということをもう一度問いかけられます。エルサレムの宗教家たちにそれが欠けていた。宗教という葉っぱを青々と身に着け,きれいに着飾っていても実がない・・・真実な祈りがないがゆえに枯れてしまうんです。
そして、いちじくの話はもう一つ、確信ということを教えます。いちじくのなる季節ではなかった。いちじくのなる季節ではないので、実がないのは当然である。なになにだから当然である。私には私の都合がある、事情がある。商売人たちには商売人たちの都合がある。この論理・・・私の都合が、事情が、すべて神に優先するんです。でも、私の都合のために神がおられるんじゃなく、神のためにわたしがあることを忘れているんじゃないだろうか。
しかし、神に対する信仰を持つことにおいて、私の都合が神の都合に変えられていく。疑わずに信ずる時・・・山が動くんです。祈ったものは、既に与えられたと確信することができるんです。
またどんなに赦せない相手をも赦すことができる・・・主に対する信仰によって。人を赦すことのできない心とそこから生まれる誤った人間関係は、信仰を偽りにします。祈りを意味のないものとしてしまいます。
自分の都合だけでなく、弱い人に対する配慮、神を愛するが故に主の御名において祈る交わり、神の臨在を覚える交わり・・・それが祈りの家、教会である。