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2014年2月16日:説教概要
宣教のバトンタッチ
第二列王記13:14−19

「エリシャが死の病をわずらっていた時のことである」・・・エリヤは天からの火の馬と戦車に乗り、竜巻とともに天に上げられた。その弟子であるエリシャは病の中に人生の幕を閉じようとしている。死というもの・・・人それぞれに備えられているということであろうと思えます。イスラエルの王ヨアシュはエリシャの臨終の知らせを聞きつけ駆けつけてきた。彼はエリシャを信頼していたわけではなかったが、依存し切ってきた人物でもあります。その頼みの綱であるエリシャがいなくなってしまう。彼にとっては人生最大の危機です。彼は寝ているエリシャの上に伏して泣き叫びます。・・・しかし、彼は何故、泣いているんだろうか。・・・決してエリシャを信頼していたわけではなかったのに、むしろ、自分の罪を指摘し続けてきた預言者エリシャなのに・・・彼はエリシャのことを悲しんで泣いているのではなく、自分のために涙を流し、泣いているんです。

今まで頼り切ってきたエリシャなのに・・・これから、どうすればいいんだ。と言った人間に頼り切って生きて来た人物の涙です。その泣き崩れているヨアシュに、エリシャは主からの挑戦としての課題、教訓を与えます。「弓と矢を取りなさい」「弓に手をかけなさい」と命じた。戦いにおける勝利は棚ぼた式に、自動的にやってくるものではなく、あなたの求める態度に伴う勝利であることを教えようとします。勝利の約束ではなく、勝利の可能性の約束といったものです。

私は信仰の良き戦いを終えて天に帰って行きます。しかし、あなたはこの世界に残り、あなたには宅された仕事がある。さあ、戦いの準備をしなさい。泣いている暇はない。エリシャは弓に手をかけたヨアシュの手の上に自分の手を重ねます。自分の持っているものをヨアシュに受け継がせようとするんです。

17節にはこう書かれます。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを滅ぼす。」・・・エリシャは去っても、神は常にヨアシュとともにおられる。勝利はエリシャから来るのではなく、主から来る。エリシャはヨアシュに「矢を取りなさい」と言い、「それで地面を打ちなさい」と命じた。ヨアシュは3回打ったが、それでやめた。そのことに対してエリシャは怒って、あなたは5回、6回打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことであろう。

しかし、今は3度だけアラムを打つことになるだろうと言った。・・・何回打ちなさいと言われない。・・・なのに多かった。少なかった。何が求められているんだろう。何がポイントになるんだろうか・・・エリシャの情熱、信仰の情熱を伝えたかった。なのに、ヨアシュには伝わらなかった。ヨアシュは勝利の矢で地面をおそらく3度ポンポンと打ったものであろうと思わされます。心の中ではエリシャが死んだらもう終わりだとあきらめの気持ちで・・・エリシャが臨終の床で手を重ねて教えた信仰をヨアシュは自分のものとすることができなかった。エリシャが去っても神はおられます。

しかし、神の祝福を受けるかどうかは自分自身の信仰にかかっている。その信仰の情熱を自分のものとすることに失敗した。神に求めることをしてこなかった結果であろうと思えます。神を信じなさいと言われる時、それはチャレンジの時です。すべてが主にかかっていることを認める者だけが素直に求めることができる。しかし、そうではない者は神の期待につながる求めはない。

今、エリシャから多くの時代を経て主は勝利の矢を私たちの手に委ねています。問題なのは・・・その勝利の矢を信仰の情熱をもって射ることができるかどうか・・・何度までとは言わず、勝利を得るまでたたき続ける熱心さが求められているのではないだろうか。