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2014年1月12日:説教概要
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第二列王記6:8−19

エリシャの時代・・・北王国イスラエルはアラムの侵略を受けていた。アラムの王は家来たちと戦略を練りに練り、考えられる最善の方法をもってイスラエルに攻撃をしかけます。しかし、イスラエルの隙をついて攻撃したはずなのに、アラム軍の行く所々においていつもイスラエル軍が待ち受けていた。そこで、アラムの王はイスラエルに通じているスパイがアラムの中にいる・・・そのことを疑います。

情報が漏れたのは、アラムにあるのではなく、イスラエルの預言者エリシャがアラムの王の語る言葉をすべてイスラエルの王に教えていたことにあります。その報告に基づいてイスラエルは作戦を立て、アラムの攻撃を幾度も阻止した。

アラムの王の家来は「エリシャは誰にも知られない寝室で語る王の言葉ですらイスラエルの王に告げている」と語りました。・・・・事実、8節、9節を見ると、エリシャの情報は的確であり、十分でもあった。しかし、これはエリシャの超能力のゆえでなく、不信のイスラエルをさえ、顧みられる主のみわざのゆえである・・・。まさに「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とローマ人への手紙の8章にあるように、アラムの王はイスラエルと戦っていたが、その背後にある神を敵に回して戦っていたのである。

彼らの作戦がうまくいかなかったのは、作戦が不十分だったわけでもなく、不運が続いたのでもなく、神を敵に回して戦っていたが故である。アラムの王はエリシャの存在を知りました。しかし、神を敵に回すことの愚かさを考えるどころか、かえって心を頑なにしています。王はエリシャがどこにいるかを突き止めさせます。

情報がエリシャを通して漏れているのであれば、彼を捕まえればすべては解決する。・・・王は彼を捕まえれば、すべて解決すると考えます。エリシャを用いている神のことを考えずに、エリシャ自身に超能力があると考えたのであれば、彼の判断はそれなりに間違ってはいないのかもしれない。・・・しかし、その前提そのものが霊的無知を示している。今、エリシャがドタンの町にいる。そのことがわかり、エリシャを捕まえるために大軍を送り、夜のうちに町を包囲します。・・・翌朝早く、召使の若者が外に出てみると、いつの間にか大軍に町が取り囲まれているのを見て「どうしたらいいでしょう」とエリシャに報告します。若者は大軍に囲まれているのを見て不安と恐れのためパニックに襲われたのです。エリシャ自身はすでに霊的戦いの現場にいたので、すべてを知っていました。

しかし、若者はアラムとの関係が良くないことは知っていたが・・・まさか自分たちが包囲されるとは思ってもいなかった。・・・この若い召使の状況・・・病気のために祈る必要がある、祈りを要請しなければいけないことは知っていても、自らが祈る立場にあることを忘れてしまっている・・・そういった状態であった。彼はある程度の霊的な理解をもっていたからこそ、神が人とおられることを喜びとし、誇りとし、安全と思っていた。

しかし、あまりの大軍を目にして、さすがのエリシャも今度ばかりはといった切迫感を持ったのかもしれない。しかし、エリシャは恐れている彼に「恐れるな」と言います。この現実を見て「恐れるな」・・・自信を持てと言うことではなく、「見るべきものを見なさい」そこに臨在される神を知りなさい。・・・見えないお方を見るということは、聖霊によって歩むと、いうこととは別のことではないような気がします。

若者はエリシャの執り成しの祈りによって「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちている」のを見ます。肉の目で見えるものと見えないものの力関係を見ることの出来る人は幸いであろうと思います。霊の目は肉の目の理解を助けることができます。しかし、肉の目は霊の目を助けることはできません。「彼の目をひらいてください」エリシャの執り成しによって若い者の霊の目は開かれました。神がどんなに偉大なお方であっても、私たちの信仰が成長しないとその偉大さが分からないんです。私たちの信仰が成長するように・・・目が開かれるようにイエスさまは背後で祈ってくださっていることを覚えて歩みたいものです。