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2013年11月10日:説教概要
「明暗を分ける要因」
第二列王記5:15〜27

人間というものは贈り物に弱いものであろうと思います。買った物について来るおまけや、ちょっとした手土産に始まって下心のある金品に至るまで、さまざまな思いが込められた贈り物がこの世界にはあふれています。

聖書には、世からの贈り物をきっぱりと断った人物が出て来ます。アブラハム、ダニエルなどもそうです。しかし、その時に贈り物をしたソドムの王やバビロンの王たちの贈り物は傲慢さが混入されたものでもありました。しかし、今日の箇所のナアマンの贈り物は純粋な気持ちでエリシャに贈ったものでもあります。その贈り物をエリシャは断った。

どうして、エリシャはナアマンの贈り物を断ったんだろうか?・・・きっと、エリシャはナアマンにまことの神を心から知ってほしかったんではないだろうか。「ナアマンを癒したのは私ではない。自分が仕えている神が癒してくださったんだ。・・・だから、私は受け取らない」・・・そのように彼の目が自分にだけむいてしまうのを避けたのではないだろうか。今日の社会にエリシャのような人物がいたであろうか。実に稀有な存在であろうと思います。毅然とした贈り物を断るエリシャを見てしもべであるゲハジは誇りに思うべきであったと思います。

しかし、彼の目は金銀に向いていた。・・・金銀の輝き、絹のなめらかな光沢・・・贈り物がまぶたに焼き付いていた。ゲハジは思ったんです。「何としたことか。私の主人はあのアラム人ナアマンが持ってきたものを受け取ろうとはしなかった。主はいきておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう」・・・ナアマンは銀2タラントと晴れ着2着をしもべに運ばせ、ゲハジはそれを受け取り、こっそりと家の中にしまった。そして何事もなかったように主人の前に立った。・・・主は生きておられると言って、贈り物を断ったエリシャ、そしてその贈り物をもらいに行ったゲハジ、対照的です。

しかし、この出来事でゲハジとナアマンもまた対照的です。まことの神とは無縁のアラムから来た、しかも汚れているとみなされた病に冒されていたナアマン、彼はきよめられ、再びアラムに帰って行きます。そのとき、アラムの王と共に偶像の神リモンの神殿に入り、王がそこで身をかがめて拝む時に、彼も付き合わなければならない。彼の生活環境がそうすることを強要するんです。

彼は二頭のラバに載せるだけの土を持って帰ることを願います。主を礼拝する場を自らが築くこと、異教の環境に帰ることを自覚して土を持ち帰ることによって、神との繋がりを持とうとする気持ちの現れです。反対にゲハジ・・・「主は生きておられる」とエリシャと同じ言葉を使ってはいるが、彼の心はエリシャと全く反対のことを考えている。彼は世的なアラムに行った事さえありません。

常にエリシャの傍らにあって、汚れた偶像を拝んだこともない。しかし、23節にあるように銀2タラントと晴れ着2着を背負って歩むしもべの後をついて行くゲハジ・・・物にひかれて行く罪人の姿そのものです。彼は銀と晴れ着を慕った・・・一仕事を終えた彼は平然と神の前に立ちます。

エリシャが「あなたはどこへ行って来たのか」と尋ねると、彼は顔色ひとつ変えずに「しもべはどこへも行きませんでした」と答えた。27節には皮肉にもナアマンがもっていた病をゲハジが被ることになった。

二人の明暗を分けた要因は何なんだろうか・・・心であろうと思います。ナアマンはアラムに帰ってリモンにひざまずくことはあっても、その心は主にのみ向いていることを告白している。そのためにイスラエルの土を持ち帰った。

ゲハジが持って帰ったのは銀と絹の晴れ着であった。表面を繕い、何もなかったように振る舞ってもゲハジの心は銀と絹と言うこの世的な物に、外の世界に縛られていた。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」