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2013年10月27日:説教概要
問題解決に至るステップ
第二列王記5:1〜14

ナアマンはアラムの軍隊の将軍であった。ナアマンはすばらしい国に生まれ、最上の教育を受け、傑出した能力で最高の地位を獲得した人物であった。1節をみると、彼は「主君に重んじられ、尊敬されていた」とあります。聖書は、そう説明した後で重大な一言を付け加えています。「この人は勇士であったが、ツアラアトに冒されていた」

ツアラアト・・・この病は最上のアラムの文化をもってしても、いかんともしがたい病であった。ナアマンはごく普通の生活をしていたのですが、ある日、その斑点が表に出てきた。いったん気になると、それは片時も忘れることのできないほど、彼を悩まします。ナアマンはこの問題の解決に至るまで二つのステップを踏むことになります。

ナアマンの悩んでいる、苦しんでいる姿を傍らで憐れみをもって見ていたのが奴隷の女であった。彼女はイスラエルの地から連れて来られた、ナアマンの奥さんに奴隷として仕えていた。少女は思い余って・・・あるとき、女主人に言います。「もし、ご主人さまが、サマリヤにいる預言者のところに行かれたら・・・」

問題の解決の第一歩は、ナアマンがへりくだって、この少女の意見を受け入れたことにあります。彼は、これまで王宮のお抱えの医者に診てもらったに違いありません。その彼が、最後は自分が敵国であるイスラエルから連れて来た少女の意見に耳を傾けた。アラムの国のNO2である将軍が奴隷の、しかも年端もいかない少女から・・・私たちならばどんな人の意見なら耳を傾けるんだろうか。・・・有識者と呼ばれる人々、専門家と称される人々なんだろうか。

しかし、ナアマンの抱えていた重大な問題については、いかなる専門家よりも、この少女の方がはるかに勝っていた。そういった出会い・・私たちにも多くあるんじゃないだろうか。ナアマンは自分の無知は認めた。しかし、彼はプライドの塊となってイスラエルに出かけて行きます。預言者に世話になったとしても、借りは作りたくない。彼は銀10タラント、金6000シェケル、それと晴れ着10着・・・それらを戦車に積み込んで出かけた。まずは金にものを言わせるといったことでしょう。そして次に権力にものを言わせます。

アラムの王は「行って来なさい。私がイスラエルの王にあて手紙を送ろう」と外交文書を授けます。アラムとイスラエルの関係から見れば、イスラエルの王はどんなことがあっても断れません。そういう力関係です。ナアマンはまず王宮に出向きます。しかし、そこには解決がなかった。最終的にナアマンは簡素なエリシャの家にたどりつきます。「こうして、ナアマンは馬と戦車をもってきて、エリシャの家の入り口に立った」・・・9節のこの光景を頭に浮かべると対照的な場面が浮かんできます。馬と戦車、そして多くの土産物を携えた将軍と多くの兵士がエリシャのちっぽけな家の前に整列しているんです。

ナアマンは自分なりのシナリオを持ってきています。私たちもそれぞれ自分のシナリオを持っています。人生の・・・結婚の、老後の、宗教の・・・宗教のシナリオ・・・こうやって信じよう。こうなってからクリスチャンになろう・・・そういったものです。しかし、神のシナリオは私たちのシナリオとは違います。ナアマンのシナリオはと言うと、11節にこうあります。

まず将軍としての尊敬をもって迎え入れられる。家来の者が王の手紙を読み上げる。そして神の人が患部に手を置いて、主の名を呼んで癒す。ところが・・・エリシャは家から出てこようともしない。代わりに使いの者が応対し、ナアマンが思い描いた厳かな儀式もない。しかも、ヨルダン川で7度体を洗えと言う。ナアマンのシナリオはことごとく破られ、彼は怒って帰ろうとします。そのとき、家来の一人が助言するんです。

13節ですが、「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに身を洗って、きよくなりなさいと言っただけではありませんか」ナアマンにとって、このことは一つの挑戦であったと思います。「病については、自分は全く無力である。どうしようもない。何もできない。」ナアマンは謙虚になって、言われる通りにすることにします。

彼は誰にも見られたくない軍服で覆われたからだを・・・プライドを、軍服を脱ぎ捨てて裸になってヨルダン川に身を沈めた。・・・自らのシナリオではなく、神のシナリオに従った。この病にたとえられる人間の罪・・・同じであろうと思います。「ただ、信じなさい」という言葉も、人の功績によらずという意味が含まれている。

しかし、それ以前に何もしなくてよいと言った自らの責任免除ということではなく、どうすることもできない、キリストの十字架にすがるほか道なしと言った認識をも含む言葉でもある。神の御前における罪深い姿を軽く見積もってはいけないんじゃないだろうか。