「主の御手が」
第二列王記4:38〜44、6:1〜7
今日の箇所・・・3つの奇跡が描かれています。
ここに登場する人物、みんな神のために働こうと願っている。しかし、同時に人間として当然ではあるんですが、多くの失敗や欠けを持った人々です。場所はと言うと、預言者のともがらが集まっている所・・・今で言うならば神学校のようなところであるのかもしれません。まず、毒性の瓜の毒を消すといった奇跡が行われます。ある日、一人の神学生が台所当番を命じられます。彼が食用の草を摘みに野山に出かけて行きます。
38節には、その地に飢饉があったと書かれているので、難儀な作業であったろうと思われます。簡単には見つからない・・・しかし、彼は野原でつる草を見つけ、前掛け一杯に採取して喜びいさんで帰って来ます。早速、煮物を作り始めます。大きな鍋がみんなの前に運ばれ、煮物が椀によそわれ、感謝の祈りがささげられて後、みんなの口に入った。その時、「神の人よ。かまの中に毒が入っています。」・・・野生の瓜は毒性のものであった。その指摘で一番焦ったのは、今まで得意げに煮物を椀によそっていた神学生であった。・・・よくありそうな間違いではあります。
しかし、「毒」という表現は、これが死をも意味する致命的な過失であることを示します。神のために全力を尽くしていながら、時に一生懸命であるがゆえにとんでもない過ちを犯してしまうのが私たち人間であるのかもしれない。この時、若い神学生は青ざめて下を向くだけです。しかし、この不注意による事故にあって主の御手が助けに入った。
41節ですが・・・「エリシャは言った。では麦粉を持って来なさい。これをよそって、この人たちに食べさせなさい。その時にはもう、かまの中には悪いものはなくなっていた」主の働き手は常にそのような軌跡をもって神ご自身が介入してくださることを期待できる。・・・不注意にあっても、そのような奇跡が台所で・・・日常生活で起こる。
二つ目の奇跡は「これだけです」と言った言葉に対しての奇跡です。近所の農夫が神学生たちのために食料のささげものを持って来ます。大麦のパン20個と一袋の新穀を持ってきた。飢饉が一帯を襲っている時に、彼は神学生たちのために大切な食料を持ってきたのです。みんな感謝します。ところが、それが台所に並べられると召使の一人が現実的な問題を指摘します。「これだけで、どうして100人もの人に分けられましょう。」・・・「これだけで」という言葉が出た時にエリシャはこの場に神の奇跡を願い、それを信仰のレッスンとして「これだけ」という言葉が信仰者にいかにふさわしくないものかを教えられます。農夫のささげもの・・・必要のすべてを満たすことはできないのは事実です。しかし、そのささげものをどう用いるかは神の御手にあることです。
43節でエリシャは言います。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。彼らは食べて残すだろう」・・・「これだけで何になりましょう」という発想は、不足している現状、ないものに目を留める時に出てくる言葉です。しかし、神は無から有を創造するお方です。しかも、「これだけ」しかないものを与えてくださったのは誰か・・・神ご自身なんです。これだけを全部取り上げてしまうのも、何倍にも増やしてくださるのも神の御手である。手に委ねられたものに目を留め、最大限に用いてくださる神に信頼することが求められているのではないだろうか。不十分な備え・・・神が備えてくださったものである。
三つ目の奇跡は不慮の出来事に対する奇跡です(6章1−7節)木を倒している時、借りてきた斧の頭の部分が柄から離れて水の中へ沈んでしまった。不可抗力の出来事が起こってしまった。一瞬のうちの出来事です。不意の出来事で私たちの人生が変わってしまう。それが人生であるのかもしれません。しかし、エリシャは何事もなかったかのように斧の頭を浮かび上がらせます。私たちにとって突発的な事件も神にとってはそうではない。瞬時にすべてをご覧になり、時を戻すことも、沈んだ斧を浮かび上がらせることもできるお方です。
主の御手を期待できるのが主の働き手である。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかかにされるためです。」第2コリント4:7