礼拝説教概要
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2013年9月15日:説教概要
「老いても、なお」
ヨシュア記13:1

「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(13:1)

人生における一仕事・・・十分に働いた。為し終えた。後は老後をゆっくり休みたい。好きな趣味にでも没頭して楽しく生きていきたい。・・・また、そういう方がおられたら、私たちも・・・もう十分やってくださったんだから、後は私たち若い者に任せてください。そう言って、そうしてあげるのが「敬う」ということであろうと考えます。でも、ヨシュアに対して主はそうではなかった。「老いたが、なお残された仕事があります。」かつて99歳になったアブラハムに対して主はこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」・・・今までよく頑張った。これからはあなたの好きなように歩んでいいよ。そう言ってあげるべきであろうとも思えます。

しかし「わたしの前に全き者であれ」・・・人生、最後に至るまでわたしの前に全き者であれ。以前、70歳をゆうに過ぎていた姉妹が病気で入院し、退院したとき、彼女は「ただ今、帰りました」と礼拝で挨拶をしてくれましたが、私は「あまり無理をしないでゆっくり休んでくださいね」と言ったところ、彼女は「先生。私は年をとっています。いつ教会にこれなくなるかわかりません。いや近いうちに必ずそういう日が来ます。だから来れる時には無理をしてでも礼拝に来させてください。」と叱られたことがあります。

「敬う」・・・その人の存在を尊ぶ。ならば、その人にある神さまのご計画を共にあゆむ、それはまさに、その人の全き歩みのために祈ることであろうと思うし、妨げになることはしない。また逆に必要ならば手足になることであるのかもしれない。晩年になっても使命が与えられていることを自覚することは幸いな人生であるのかもしれない。

[最上のわざ]この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架を担う。若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず。人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。

互いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことの故郷へ行くために。おのれを、この世に繋ぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何も出来なくなれば、それを謙虚に承認するのだ。

神は最後にいちばん良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。すべてを為し終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。「子よ。わが友よ。われ汝を見捨てじ」と。ヘルマン・ホイベルス