礼拝説教概要
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2013年9月8日:説教概要
「神を欺く罪」
使徒4:32〜5:11

アナニヤとサッピラという夫婦に起こった出来事、クリスチャンであっても理解しにくい面があるのではないだろうか?この出来事を正しく理解するためには4章の後半に書かれている教会のあるべき姿を見る必要があると思う。

32節では「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれ一人その持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた。」彼らにとって与えられた物は、みな神からのものであると考え、自分の物という利己心を持っていなかった。しかし、貧しい者も必要に応じて与えられるので生活に事欠くことはなかった。そして、持てる物の中から必要に応じて切り売りをして必要に応じてささげていた。彼らは心と思いを一つにして生活をしていた。

しかし、36,37節を見るとバルナバは自分の畑を全部売ってささげた。彼は伝道者として教会の必要を覚え、切り売りしたぐらいでは間に合わないという思いの中で全部を売り、全部をささげた。このように教会は心の一致における共有の生活を送っていた。

ところが5章に入ると、アナニヤとサッピラの夫婦は教会の必要を覚えてか、バルナバの信仰に触発されてかはわかりませんが、彼らの持っていた地所を売り、その一部を教会にささげた。しかし、ここで問題となったのは一部をささげた、全部をささげたということではありません。8節でペテロがサッピラに尋ねます。「あなたがたは、地所をその値段で売ったのですか。私に言いなさい」サッピラは「はい。その値段です」・・・彼らはささげた金額で、その地所を売ったように見せかけた。しかも、その偽りを夫婦が綿密に計画を立てて行った。彼らの行動に対してペテロは3節で「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金を残しておいたのか」・・・聖霊を欺く罪であると厳しく叱責しています。彼らは聖霊の導きによって地所を売る決意をし、ささげる思いを与えられた。

しかし、いざ手元にお金が入ると、全部をささげなくても一部をささげれば誰にもわからないし、全部をささげたと言えば素晴らしい信仰者だと思われる。彼らは物欲と名誉欲を得ることができると考えた。しかし、2節で「その代金の一部を残しておき」と言われている、残すと言う言葉は「着服する」「盗む」といった言葉が使われています。彼らが代金の一部を残して偽ったということは、神にささげた物を着服した罪である。

しかし、もし、彼らが正直にこれは代金の一部ですと言ってささげていれば、彼らに罪はなかったんだろうか・・・もともとは彼らの地所であり、売る必要のない物でもあった。しかし、教会の現状を見た時、売らずに置いておく余地はあったんだろうか。売ろうと決心したのは聖霊の導きであり、ささげようとの思いを与えたのも聖霊の促しであった。つまり、売らずに残すことの出来ない、売ってからも自由には出来ない神にささげられた神のものとなっていたものです。

さらに一度でも、ささげても良いと考えたほど生活にゆとりのある彼らが財産をささげようと決意せずにいることは愛の共同体である教会を欺く罪でもある。このことは、私たちが教会をどう見るかということにかかわってくることであろうと思える出来事です。教会は主の臨在の場所・・・聖霊の豊かに働かれる、愛の交わりの場所であることをしっかりと覚えたいものである。