礼拝説教概要
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前回説教
2014年3月9日:説教概要
「まことの礼拝」
マルコ12:41−44

「まことにあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけ全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

イエスさまは喜んでおられます。でも、何がそれほどまでにイエスさまを喜ばせたのだろうか?・・・貧しい者がささげるものは、富める者がささげるよりも尊いと言っておられるんだろうか。また、ささげものというのは量の問題ではなく、質の問題であるということを言っておられるんだろうか。確かに、このやもめは生活費の全部をささげたと言われている。

しかし、もし、生活費を全部ささげることが献金を真実のささげものとするかどうかの分かれ目であるとするなら・・・一体誰が、そのようなことをし続けることができるんだろうかとも思わされる。イエスさまは、何故、ここで、このやもめの献金をほめられたんだろうか?・・・十字架の受難を前にして毎日、神殿で出会う人々に真の祈りがないこと、信仰が貧しいこと、ささげものをするにしても捨てきれない思いを常に抱いている人々の姿を悲しんでおられた。

このやもめと出会う前にこう教えておられます。38節からの箇所ですが・・・神殿における真実の神礼拝とは何かを教えるべく律法学者たちの敬虔さを教えながら、見栄や自らの栄光を求める姿を厳しく論じて、その偽善を戒められた。

自我に生きる人間の醜い現実・・・それが律法学者たちの姿であった。このやもめは、律法学者たちと対極に立っていた。つまり、律法学者たちのしていないこと・・・全財産をささげることをしていた。イエスさまにとって大きな慰めとなった。

全財産をささげた・・・しかし、このやもめはレプタ銅貨を二枚投げ入れた時、どういう気持ちだったんだろうかとも思わされる。一枚は自分のもとに置いておこうとは考えなかったんだろうか。二枚ということは、そういう思いがあっても当然であろうとも考えられる。しかし、やもめはそうは考えなかった。イエスさまは、彼女の献金は、その所有する全財産、生活費の全部であった・・・だから尊いと言われた。

しかし、当のやもめは、そんなことを考えていたんだろうか。・・・個人的な見解ではあるが、やもめは自分がささげたものが財産のすべてであり、生活の支えであったことを意識すらしていなかったんではないだろうか。そんなに大変なささげものをしているとは思ってもいなかったんじゃないだろうか。

やもめは、経済的にというよりも、心が貧しかった。・・・イエスさまが「心の貧しき者は幸いなり」と言われた貧しさを持っていた。やもめが自由であったということは、貧しさからも自由であった。私たちならば・・・私がささげたんですよ、とささげたという思いに縛られています。ささげたという誇りに縛られています。でも、やもめにはそんなことは一切関係がなかった。

大切なのは・・・今、自分が神の前にあるということだけである。自分がこの恵みに生かされているのだということを知っていた。その与えてくださっているもの、今持ち合わせているものの全てをささげるのは当たり前である。何も胸を張って誇らしげにすることはないんです。自然にしたことである。何のこだわりもない。神を信頼しきっている。

それゆえに、全く自由に生きる一人の女性の神を礼拝する姿・・・それが痛みを知るイエスさまの心を捉えた。真の自由に根差す礼拝・・・まことの礼拝ではないだろうか。それが十字架を間近に控えたイエスさまの心を喜ばせた。どれだけささげたということよりも、神を信頼することによって思い煩いからも自由に生かされたいものである。