礼拝説教概要
戻る
前回の説教
2013年7月21日:説教概要
「二つ町・エリコとベテル」
U列王記2:15〜25

町というのは、それぞれに独特な文化を持っているものである。そこには独特な風景がある。そこに住んでいる人々の固有の意識がある。それぞれが培った歴史がある。町というのは、ただ町が存在するといったものではなく、住んでいる人々の生活、文化、人格が表されているものであろうと思います。

今日の箇所、エリコとベテルという二つの町が描かれています。この二つの町、旧約聖書の歴史の中で知名度の高い町でもあります。エリコの町、神のさばきが訪れたのは数世紀前のことです。ヨシュアに率いられたイスラエルの民によって陥落させられた町・・・。ベテルの町はヤコブが旅の途中で石を枕に一夜した場所です。彼はそこで祝福され、石の柱を立て神を礼拝した。そこをベテル、神の家と名付けた町です。この祝福を受けた、神からのさばきを受けた町がエリシャが訪れることによって逆転した。エリコは神からの祝福を受け、ベテルは神の預言者をからかうことによって呪いを受けた。・・・このことから、神の祝福、呪いというのは、特定の場所や特定の人々に固執しないということであることがわかります。以前、祝福されたから今も、今後も安泰であると高をくくるわけにはいかない。また過去の呪いに今も縛られているといって悲観する必要もないであろうと思う。

神の祝福、呪いを決定するのは今の私たちが神のみことばに、どのように応答するかといった、今現在の信仰によるものである。エリコの町・・・「ご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地には流産が多いのです」(19)・・・以前からオアシスとして栄え、水の豊かさのゆえに、何とか廃墟となることなく存続していた町ではあるが、この町のいのちの源、人間生活の根本となる水源が毒されていた。水が悪い結果、この土地は流産が多い・・・水が豊かである。そのために木々が緑の葉を茂らせ、オアシスとして旅人に憩いを与える・・・しかし、新しく生まれんとする命・・・流産となってしまう。

生活をいくら改善しても、その源が汚れ、病んでいるとき・・・いのちの努力も死へと流れてしまう。私たちの生活においても同じことが言えるのかもしれない。どうしてなんだろうか・・・私たちの人生の源、何なんだろうか・・・心ではないだろうか。外側をどんなに繕っても、心が汚れているとすべてが無駄である。エリシャは言葉によって水を癒します。同じようにイエスさまは「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言われ、「その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」と十字架から流れ出る血潮によって源である心がきよめられます。そのことによって生かされるんです。

そして二つ目の町・・・ベテル。神のさばきが行われます。かつてはヤコブが神に祝福された町であった。しかし、ソロモン王の死後、イスラエルは分割されてしまい、北王国のヤロブアム王は金の子牛を作ってベテルとダンに偶像崇拝として設置した。しかし、この町にも預言者のともがらがいた、とあるように未だ純真な信仰が生きていたことも事実です。しかし、今は偶像崇拝の町と化していたことも事実です。エリシャがベテルの町に向かったとの報を受けた町の人々は・・・神の預言者に敵対心を抱いているバアル信仰の人々は、子供たちをエリシャをからかうために送り出します。

「上って来い。はげ頭」・・・と歌を歌うかのように神の人を馬鹿にします。エリシャはそのとき、彼らを睨み付け「主の名によって彼らを呪った」神の言葉がエリコでは祝福となり、ベテルでは呪いとなってさばきをもたらした。森の中から二頭の雌熊が出て来て、42人のこどもたちをかき裂いた。どうしてエリシャはこんなことをしたのだろうか、預言者がどうして子どもの言葉にむきになったんだろうか・・・あのエリヤの後継者としては、あまりにも大人げないのではないだろうかとも思える。

しかし、24節を見ると「彼は振り向いて、彼らを睨み、主の名によって呪った」・・・主の名によって、呪ったということは、別に彼が短気であったからではないだろうし、主の名を勝手に用いてというわけでもない・・・真実は、主がエリシャを用いてみこころを行われたということであろうと思います。

子供たちという言葉も年端もいかない、何もわからない幼い純真な子供というのでなく、ここでは青年たちをも含む言葉でもある。つまり、町の人々、町の文化が、町が預言者を馬鹿にした。彼らはベテルの人々の霊的な状態をそのまま受け継いでいるんです。子どもたちのあざけりはエリシャ自身をさげすむことではなく、エリシャを立てられた神に対する挑戦でもあった。

二つの町、町はそこに住む人々の文化の現れ・・・霊的な状態である。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」過去ではなく・・・今の信仰が問われる。;