「この道しかない」
ヨハネ14:1〜6
日本人は死を考えないというか、死の話題を避けることがあるように思える。それは「死がいつ来るかわからない」ということが大きな原因であろうとおもいます。また「私にはまだ関係がない」と言うことであったり、「死の恐怖から逃れる」といったことにあるのかもしれません。
しかし、襲い来る不安、恐怖から身を隠す、避けるということは同時に、本来見つめなければならないものを見落としてしまうといった危険もあります。死の話題を避けることによって、今日と言う日を真摯に生きることを見失ってしまう恐れがあります。死というもの・・・すべてを虚しくするものです。愛する者との交わりを一瞬のうちに引き裂くものでもある。そして、死の向こう側・・・未知の世界で、わからない世界である。私は死んだら終わりなんだろうか、死んだ後に何があるんだろうか。
聖書には「ひとりの人によって罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうしてすべての人が罪を犯したので、死が全人類に入りこんだのである」(ローマ5:12)また「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)死と言うものは人類の祖先であるアダムが神に背いたことによって罪がこの世に入り、その罪のさばきとして与えられたものである。・・・神に対する背きに対して与えられる神のさばきであるがゆえに死を恐れるのである。
しかし、神は私たちが暗い死の世界に入りこんでいることを望んでおられるわけではない。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである」イエス・キリストを信じることによって天の御国に入ることを約束してくださった。「わたしの父の家には住まいがたくさんあります」・・・行くべき所が定まっているがゆえに平安である。死を迎えることができる。
しかし、問題は私がそこに行くことができるかどうかである。6節でイエスさまは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」・・・言われているのは「この道しかない」と言うことです。人生において道を教える人はいます。
しかし「わたしが道である」と言われるのはイエスさまだけです。買い物において道を間違っただけなら、時間と労力のロスで済むかもしれない。しかし、人生の道ならば間違ったでは済まない。それは」滅びに至る道でもあります。
そもそも道というのは、人に踏みつけられて初めてできるものです。イエス・キリストは私たち一人一人に踏みつけにされてきたものである。何のために・・・私たちが御国に帰るための道を造ってくださるために十字架にかかってくださった。この道しか天国に至る道はないんです。