「喜びを刈り入れる」
マルコ4:21〜34
この箇所にはいろんな譬え話が語られています。マルコの福音書では一つの繋がりの中で語られ、しかも種蒔のたとえ話に続いて語られています。種は「みことば」を表し、「みことばには力がある」ことを教えているので、当然ここでは「みことばの力」、つまり伝道における神様の働きについて考える必要があります。
伝道にとって大切なこと・・・それは聞くこと・・・23節では「聞く耳のある者は聞きなさい、さらに24節では「聞いていることに注意しなさい」と言われます。最初のたとえ話は「明かりを持ってくるのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか」・・・明かりというのは照らすものです。それを、あえて隠してしまうようなことは誰もしないと思います。しかし、イエスさまが、このたとえを話されたと言うことは・・・どんな理由でか、みことばを恥じている人がいたのかもしれません。ひょっとしたら、イエスさまを恥じていたのかもしれません。そのことのゆえに、自らの信仰を隠していた。そういう人がいたのかもしれない。「あかりを燭台の上に置きなさい」・・・信仰者であることを恥じるな。どんな理由があっても、自らを明かさないということは、極端に言えば、キリスト者であることを恥じているということでもある。
信仰者であると言うことは、明かりを、イエス・キリストを・・・イエス・キリストによって生かされている自分を、生活を掲げることです。すべての人があらゆる角度から見ることができ、私たちに聞くことができる。そのことを通して神様を崇めることが出来るようになる。1−20節に語られている種蒔のたとえのように、伝道とは効率を度外視して、みことばの種を蒔くことにある。しかし、時には種が育たず、種蒔も徒労に終わったと言う虚しさや失望に襲われることもあります。失望感と虚しさ、疲労感から、あたかも枡の下のあかりのようにふさぎ込んでしまい、伝道から離れてしまったり、信仰を失ってしまうことも起こり得ます。
ここで「聞く耳のある者は聞きなさい」「聞いていることに注意しなさい。」・・・何を聞いているのかに注意しなさい。表面的な聞き方をするのでなく、聖書のみことばを讃美と祈りに変えているだろうか。みことばを正しく聞くところでこそ、困難、失望、挫折にもかかわらず収穫に鎌を入れることになる。「持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っているものまで取り上げられてしまいます」とあります。この言葉を聞くときに豊かな者から取り上げて貧しい人に分け与えてあげれば、すべての人が平等に公平になるのに・・・と思うこともあります。
しかし、ここでは、みことばに聞き、理解し、従うことを努力すればするほど、それだけ多くみことばから恵みを受け、喜びがまし加わり、多くの人に喜びを与えることができると語っているんです。種を蒔く・・・それが成長し、芽を出し、やがて実を実らせる。どうしてそうなるかは人は知らない。人の手によらずして作物は実を実らせる。すべてが神のわざである。種が芽吹き、成長することは神にゆだねるしかない。命を与え、成長させ、豊かに実らせるのは神のみわざである。それには段階があり、順序がある。
だから、あせらず待つ必要がある。そして収穫の日に鎌を入れる喜びを与えてくださっている。この絶対的な約束が与えられているからこそ種を蒔くことができる。みことばの種が蒔かれ、神様によって成長させられた実は世界中に広がります。蒔かれた種はどんなに小さくとも生きた信仰があればよい。もし、それが神様の支配によってなされたものならば、必ず成長して多くの人を宿す、平安を与えるものとなりうる。どんなに小さな働きであっても始めることが大切である。人が手を貸すことによって・・・その時を早めることもあります。
しかし、そのことによって神様の働きを阻害することは・・・邪魔することはないだろうか。神様は豊かな収穫をともに喜ぶことをみこころとし、それを神ご自身の喜びとされる。そのために神さまは待っておられる・・・ともに喜ぶ時を。世界がどんなにご支配に逆らい、私たちが疑ってもそれを許しておられる神・・・そこに絶大なる自信を見ることができます。神はともに喜ぼうと私たちを招いてくださっているんです。