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2013年6月9日:説教概要
「危機に際して」
U列王記1:1〜4

今日の箇所・・・イスラエルの王アハブの息子、アハズヤに起こった出来事です。アハズヤ・・・彼はイスラエルの王家に育ちはするんですが、決して恵まれた環境にあったというわけではない。父親のアハブは子供のように短気で思慮のない気分屋であったし、母親のイゼベル、彼女は感情的で暴力的な人物であった。

そして、彼が王位に即位すると、すぐに戦争が勃発します。モアブという国がアハブが死んだとなると、これまでの従属関係を放棄して反乱を起こした。それから、間もなく不慮の事故がアハズヤを襲った。イスラエルがモアブと戦っている最中、彼は戦場には行かずに王宮にいた。そして、屋上の欄干に寄りかかっていたとき、彼はそこから落ちた。実に不名誉な事態でもあったわけです。そうなったことには、彼の生まれ育った環境が影響したのかもしれない。

しかし、今、彼は選ぶことができます。今、何をなすべきなのか、それを選ぶことが出来たんです。神の預言者のエリヤの元に助けを求めに行くのか、それとも他の神々の所に走るのか。どのような世界に生きていたのかということは、私たちの生き方を90%は決定するのかもしれません。しかし、危機に瀕した時、どちらの方に顔を向けるのか。その選択に要する時間は、その人の全体の時間からみれば・・・ほんの一瞬に過ぎない。

しかし、その決定が人生の方向と結末を決する重要性をもっています。病の中にあって、アハズヤは使いの者をエクロンに送ろうとします。このことは、彼がバアルに仕えていたからと言うだけでなく、危機においてさえも、どうしようもない状況にあっても・・・もうイスラエルの神、主に求めることができなくなってしまっていた。しかし、ここで不思議だなあと感じるのは、どうして彼は癒しを求めていないんだろうか。「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私の病気が直るかどうか、伺いを立てなさい」・・・これはバアルの「まだ死ぬことはない。必ず直る」と言ったお告げが欲しかった。それと、直してもらったからといって、自分がバアルの神に支配されるのは困る。あくまで困った時だけ何とかしてくれよ、と言ったものであろうと思います。

このことは、何も王であるといった高慢さといったことではなく、普通の人の無宗教の実態でもあろうと思います。多くの人がこうなったのは環境が、家庭が、社会がといって、正しい道からそれる。違った道に歩むのとおなじことであろうと思います。彼の生き方・・・これまでの習慣や教育によって、ある程度規定されていたとしても、死を意識したような病、自分の能力をはるかに超えた危機に直面した時・・・どこに助けを求めるべきかを、彼は充分に考え、選ぶことができたはずです。どちらの道を選ぶかは彼の自由意思にかかっているんです。

彼の前に置かれた二つの道・・・一つはイスラエルの神、エリヤの神である。アハズヤの人生の背後には常に何らかの形で神がおられた。彼は預言者であるエリヤを知っていました。そのエリヤは自分の領内に住んでいる。神の助けを呼び求めれば、エリヤはこの若い王の傍にいて、彼に教え、祝福の世界に導くことができたはずです。しかしまた、同時にバアルの預言者たちが彼に付きまとっていたことも事実である。

アハズヤは危機に立たされた時・・・どちらに顔を向けるか、それは彼の自由なんです。・・・ここで再びエリヤが登場します。「エクロンに行くのはイスラエルに神がいないためか」と迫ります。使いの者たちの答えも聞かないで、エリヤは使いの者たちにアハズヤの死の宣告をします。「あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ」・・・彼の罪は死に価するものであった。

バアル・ゼブブに伺いを立てようとした・・・イスラエルにこそ神はおられる。神の民であるイスラエルの王が、イスラエルに神がいないような行動を取る。王は人々を主に従うために導くものである。それなのに、悔い改めないまま受け入れてくれる神を求めてしまっている。神はアハズヤの後ろにずっと立っておられた。イスラエルは神の民である。

モアブが反逆した時も、アハズヤが欄干から落ちて怪我をした時も、その問題を通してアハズヤがこちらに顔を向けることを待って期待しておられた。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」