礼拝説教概要
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2013年4月28日:説教概要
「途上にいきる喜び」
ピリピ3:12〜21

17節をみると「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください」とパウロは言っています。この言葉はパウロが素晴らしい人格者で、伝道者であった。誰からも欠点を指摘されたり、非難されるようなところがなかったから・・・私を見習ってくださいと言えたのであろうか。そうではないような気がします。パウロは気が短く、激情型の人であったろうと思われます。

また、12−14節で彼自身が語っているように、彼は完全な人間でないことを自分でよく知っていた。ならば、彼は自分の何を見習ってほしいと言ったのだろうか。見習うべき点のヒントが12−14節に隠されていることを教えてくれています。12節では「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」とあります。

キリスト・イエスが私の罪を贖うために十字架にかかってくださった。キリストの贖いの血によってきよい者とされた。・・・完全な者とされた。この恵みの時がスタートである。そして二つ目の時は、12節の中ほどに「ただ、捕らえようとして・・・それを得るように」とあります。何を捕らえるのか・・・何を得るのか。それは14節にこう書かれます。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」神の栄冠を得る時、目標に到達する時・・・神の与えてくださったゴール。このゴールに到達する時が二つ目の時・・・さらに、そのゴールを目指して走っている今、この今という時が三つ目の時。パウロは今の自分が完全であるとは言っていません。キリストは完全です。キリストの救いによるわざも完全です。

しかし、今のキリスト者としての生活が完全であるとは言っていない。キリストの完全さに比べ、自分自身のキリスト者としての生活に隔たりがある。だからこそ、その隔たりを埋めていかなければという霊的渇望を覚えながら今の時を歩んでいる。しかし、感謝をもって・・・自分は途上に生きる者である。弱い、失敗だらけの、満足なこともできない、でも、完全を目指してキリストの満ち満ちた身丈に成長するといったゴールを目指して精一杯走っている。

15節で「成人である者は、みなこのような考え方をしましょう」と言っています。キリストにあって成人(完全な者)は自分が途上にあって不完全な者であることを知っている。大人の目から見ると子供は不完全である。しかし、大人になる途上にある子供としては完全でもある。子供同士・・・よしんば、その成長段階に違いがあったとしても、その一人一人は完全な子供です。成長を、完全を目標にして歩んでいる姿・・・それが彼自身の今日あるところの完全な姿です。

しかし、ピリピの教会には成人したキリスト者だけでなく、完全主義者の人たちもいたようです。彼らはキリスト者はすでにゴールした者であると考えます。完全主義者たちは途上にある歩みの一つ一つも完全であることを望みます。キリストの完全に対し、自分の不完全さゆえにできない。・・・そうすると落ち込みます。私はキリスト者なのに、どうして・・・完全であらねばと思っているがゆえに出来ないことは我慢できない。それでも、そのことが自らに向けられているだけなら、自分にとっては悲劇でもあるわけですが、しかし、他の人にも同じ思いを持ってしまうんです。私は出来た。できる・・・しかし、あの人は出来ていない。出来ていない人は完全ではない。クリスチャンとしておかしい。そう思ってしまうんですがあげく、あの人はクリスチャンなのにと裁いてしまう。

さらには、出来ないことが・・・自分が不完全な者であるにもかかわらず、完全なキリストをも、キリストの贖いのわざをも不完全だったというように考えてしまう。パウロは不完全な中にあっての生き方をはっきりと示しています。「兄弟たちよ。私はすでに捕らえられたなどと考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・・」前に進むためにうしろのものを忘れる。そのことが前に進むために大切である。

誰も他人の信仰を歩むことはできません。他人の到達した所に自分の出発点を置くことはできないんです。キリストの恵みをスタートとして、今達しているところを基準としてゴールに向かって進む。それが途上にあっての完全なキリスト者の生き方ではないだろうか。