礼拝説教概要
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2013年4月14日:説教概要
「キリスト教的価値観」
ピリピ3:1〜11

人間・・・誰しもが何らかの価値観を持っています。それが物質的なものであれ、精神的なものであれ、それを評価する見方というか根本的な態度を持っています。中には、私は価値観など持っていないという方もおられますが、しかし、それがまさにその人の価値観であろうと思います。問題はその価値観の内容が問われるということです。

2節でパウロは「犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください」と厳しい言葉で語っています。当時、ピリピの教会には折角、キリストの贖いによって一方的な神様の恵みによって救われたのに・・・救われるのは律法を守ることにおいてである。きよめられるのは律法を守ることによってのみである、とするユダヤ主義者たちがいました。彼らはキリストが来てくださったのに、その教えに接しながらも、なお人間の知恵とか力に頼っていた。パウロは彼らの教え、価値観を誤ったものであることを教えるために、パウロ自身がかつてもっていた価値観を7つの事柄を挙げて説明します。

あなた方が、そういった人間的なものを頼りにする・・・しかし、かつては私はそれ以上のものを頼りにしていたとパウロは言うんです。一つは5節で「私は8日目に割礼を受け」とあります。このことは、パウロが伝統的なものに価値を置いていたことを表しています。イシュマエルのように13日目で割礼を受けたのでなく、また異邦人のようにキリストを信じた時に割礼を受けたのでもない、正当なユダヤ教の儀式にのっとって8日目に割礼を受けた者である。

二つ目には「イスラエル民族に属し」と人種、血統に価値を置いていた。アブラハムからイサク、イサクからヤコブといった正当な血統である。三つ目には「ベニヤミンの分かれの者です」・・・ヤコブの最愛の妻ラケルから出た流れである。イスラエルの最初の王サウルもベニヤミン出身である。つまり家柄としても申し分なかった。四つには「きっすいのへブル人」・・・タルソという町に生まれながらも家庭ではユダヤ人として生活様式を守り、ガマリエル門下として教育を受け、へブル語を自由に語ることができた。

五つ目には「律法についてはパリサイ人」・・・律法に価値を置いていた。ほかの人に負けないほど厳格に、しかも熱心に守った。六つ目には「その熱心は教会を迫害したほどである」ユダヤ人からすればキリスト教は異端である。その教会を迫害することが神に対する奉仕であると考え、徹底的に教会を迫害するほどの熱心さをもっていた。最後の七つ目として「律法による義についてならば非難されるところのない者です」・・・行為、行いにおいて価値を置いていた。どんな些細なことも非の打ちどころのないほど律法を守った。すべての人からも責められることのないほどであった。キリストを信じる前はそういったものに価値を置いていた。

しかし、彼の価値観に大きな変化が起こった。人生において得であったような一つ一つの事柄・・・それが損と思えるようになった・なぜか・・・?7−8節で「キリストのゆえに」「私の主キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」「キリストのために」とその理由が語られています。主イエス・キリストとの生きた親しい交わりによってキリストを知ったことが、それまで得と思っていた価値観が損であると言わしめるに至った。

価値基準が「私から」「キリストに」転換した。神との正しい交わりは人間的なものに頼みを置くといったことではなく、人間によって達成されるものではなく、神によって与えられるもの・・・それは行いによって得るものではなく、信じて受け入れるものであることに気づいた。何よりもキリストを知るということは、キリストの復活の力を知ることになります。キリストと共に永遠に生きるということです。

私たちのこの世の生活が生きるに価しており、目に見える肉体は神によってきよめられるという保証であり、また死が終わりでなく、かなたの世界においても主が共にいてくださる、私たちを主から引き離せるものは何もないという保証です。そのすばらしい恵みを価値観をキリストを知ることによって与えられた者にとって人間的なものにより頼むことがいかにちっぽけなものであるか・・・