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2013年3月31日:説教概要
黄昏から平安へ
ヨハネ20:19〜29

夕暮れ時・・・何とも言いようのない虚しく寂しい気持ちに包まれて、ただ、立たずほかない・・・本当の夜の暗さがまもなく襲って来そうで、前に一歩も踏み出すことができず、何をしても無駄なことのように思え、不安や疑いの中で虚しさだけが募っていく・・・そんな夕暮れ時。

聖書はこのような人間の状態を19節でこのように言い表しています。「週の初めの日の夕方、弟子たちがいた所ではユダヤ人を恐れて戸が閉めてあった。」・・・弟子たちの望みはイエスさまが十字架にかかって死んでしまったことで完全に断たれてしまっています。希望が断ち切られ、社会から見放され、捨てられ、これからどうしたらいいのか・・・弟子たちは各々がそういう思いに捕らえられ、仲間が一緒にいても孤独なんです。お互いに話し合う気力もありません。ひっそりと戸を閉め、夕暮れを迎えていた。固く閉ざした戸・・・ユダヤ人を恐れたためです。

しかし、固く閉ざした戸は同時に愛する者の言葉をも、またイエスさまが十字架にかかられる前、何度も3日の後によみがえりますと言われた主の言葉をも・・・さらに復活のイエスさまをも閉ざしてしまう戸であります。虚しさは恐れを生み出すと共に信ずることすら奪い去ってしまう、それこそ私たちを生ける屍としてしまう恐ろしいものでもあります。不安、恐れ、虚しさ・・・生存につきまとう根本的な不安というものは誰しもが持っています。死に向かって行く人間の存在は不安です。この世の不安・・・いろいろあります。

しかし、その根本にあるのは永遠なるものが欠けているところから生じます。永遠性の欠如が不安を生むんです。そして死は最後の不安の原因、牙城と言えます。死は人間存在の有限性を知らせる最も具体的なものだからです。

人は必ず死ぬ、人間存在の有限性・・・しかし、それは、もしイエス・キリストがよみがえられなかったらとしたらの話です。今、イエスさまは、よみがえられ、弟子たちの前に現れてくださったのです。20節の後半には「弟子たちは主を見て喜んだ」・・・それまでの虚しさから一瞬のうちに喜びに変えられています。復活されたイエスさまは、この固く閉ざされた戸によって妨げられることはありませんでした。人間から神様に向かう道は、自らが閉ざした戸によって妨げられてしまいます。

しかし、神様から人間への道は拒まれることはないんです。復活の主は人間の絶望の中に入って来て、そこで打ち沈んでいる私たちに「安かれ、平安あれ」と語りかけられます。弟子たちの前に立たれ、最初に語られた言葉・・・非難の言葉ではなく、あら捜しの言葉ではなく、叱責の言葉でもなく、「平安があるように」・・・復活とは私たちに本当の平安を与える主の到来でなくてなんでしょう。

主がよみがえられたということは、人間存在の根本に横たわる不安のところに神が訪れたということであろうと思います。弟子たちの心を固く閉ざしていた不安、虚しさ・・・死で終わったという有限性・・・しかし、今、イエスさまは死の向こう側からやって来てくださった。

永遠性による平安・・・復活されたイエス様は死を突き抜けて私たち人間存在に、神が私たちと共にいる。私たちも永遠の神と共に永遠の中に生かされている。だから恐れることはない。平安である・・・主のよみがえりは弟子たちにとって黄昏どきから光り輝く夜明けであったばかりでなく、すべての人の上に照り染めた救いの光である。

黄昏の時は打ち破られ、固く閉ざされた戸は、今や大胆に開かれ・・・孤独や虚しさ・・・打ち沈んだ沈黙は吹き払われた・・・魂に夜明けがやって来た。イースターおめでとう。