「二つの苦しみ方」
マタイ26:69〜27:10
今日のこの箇所・・・二人の苦しんでいる姿が描かれています。一人はペテロ、もう一人はユダです。ペテロはイエスさまを三度も知らないと言ってしまった。そのことを悲しみ、苦しんでいます。ユダはイエスさまを銀貨30枚で売り渡してしまった。そのことによってイエスさまは十字架につけられてしまう。そのことを悲しんでいます。
二人の犯した罪・・・大きい小さいということはあります。しかし、ともにイエスさまを裏切ってしまったということにおいては同じです。しかも、二人ともイエスさまによって裏切りますと預言されていた。さらに、イエスさまは裏切った二人に同じように接しておられます。裏切るユダに対しては「友よ。」と親しく呼びかけられた。ペテロに対してはキリストのまなざしをもって、愛おしんでいます。しかし、ユダは悲しみの中で自ら首を吊って死んだ。それに対し、ペテロは新たな生命に生かされる者となった。彼らの犯した罪に違いがあったんだろうか・・・。それとも、イエスさまの彼らに対する愛に違いがあったんだろうか・・・。問題はその苦しみ、悲しみ自体にあるんじゃなく、苦しむ苦しみ方にあるんじゃないだろうか。つまり、一つの苦しみ方は私たちを殺してしまいます。しかし、もう一つの苦しみ方は私たちを喜びの中に生かします。
第2コリント7:10に「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」とあります。ここには二つの悲しみ、苦しみについて書かれています。一つは神のみこころに添った悲しみ。もう一つは世の悲しみについてです。死をもたらすこの世的な苦しみについて考えてみたとき、第一の特徴として劣等感を抱いて苦しむといったことがあります。他人がきくと、どうしてそんなことで、と思うことであっても当人は劣等感で苦しんでいるんです。
劣等感・・・一見、謙遜のように見えることもあります。しかし、裏を返せば高ぶりに過ぎないんです。ありのままの自分を神さまの前に投げ出せば苦しみが喜びに変わっていく道が開かれます。二つ目の特徴としては、不信仰の苦しみ方があります。暗い面、悲観的な面ばかりに目を向けて、上に目を向けないんです。愛なる神さまは私たちに最善を為してくださるお方です。私たちに苦しみを与えるためにだけ苦しみを置かれる方ではありません。すべての苦しみの背後に神の愛があります。その愛に気づかせるために私たちを苦しませることもあります。背後にあるキリストの愛に目を向ける必要があるんです。
それじゃ、何故・・・苦しみを与えられるんだろうか。・・・神の愛をより実感できるようになるために。また危険から遠ざけるために苦しみを与えられることもあります。さらに、きよめられるために・・・。純粋な本物の信仰者とするために、といったさまざまなことがあります。それじゃ、このように生かす苦しみ方とはどういったものなのだろうか。神のみこころに添った悲しみとは、悲しみ苦しみの原因がみこころであるといったものではなく、悲しみの苦しみの中心に神がおられる。だから、みこころに添った悲しみは神の救いという喜びを必然的にもたらすんです。
ペテロは自らの犯した罪にために苦しんだ。しかし、主のまなざしを・・・!イエスさまのまなざしを見たとき、「わたしは、あなたを愛していますよ」との優しい愛に溢れたまなざしを見た。その時に、彼は自らの罪を心から悔いた。罪そのものを悲しんだのです。
それに反してユダもまたイエスさまを裏切った・・・しかも、その自分を「友よ」と呼んでくださった。友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はほかにありませんと言われる、裏切っている自分を友と呼んでくださる。・・・彼もまた悲しみます。彼も罪を悲しんでいます。
しかし、罪そのものよりも罪の結果・・・イエスさまが十字架にかかってしまうといった結果を悲しんでいるんです。ペテロの悲しみは神中心であったのに対し、ユダの悲しみは人中心であった。苦しみを本当に苦しむ時、神の祝福は確実にその人のものとなります。
受難週・・・苦しみを遠ざけるといったことだけでなく、弱い者であることを受け入れ、それでも、なおかつ愛してくださるお方がおられる・・・その方を仰ぎ見たいものです。
二人の犯した罪・・・大きい小さいということはあります。しかし、ともにイエスさまを裏切ってしまったということにおいては同じです。しかも、二人ともイエスさまによって裏切りますと預言されていた。さらに、イエスさまは裏切った二人に同じように接しておられます。裏切るユダに対しては「友よ。」と親しく呼びかけられた。ペテロに対してはキリストのまなざしをもって、愛おしんでいます。しかし、ユダは悲しみの中で自ら首を吊って死んだ。それに対し、ペテロは新たな生命に生かされる者となった。彼らの犯した罪に違いがあったんだろうか・・・。それとも、イエスさまの彼らに対する愛に違いがあったんだろうか・・・。問題はその苦しみ、悲しみ自体にあるんじゃなく、苦しむ苦しみ方にあるんじゃないだろうか。つまり、一つの苦しみ方は私たちを殺してしまいます。しかし、もう一つの苦しみ方は私たちを喜びの中に生かします。
第2コリント7:10に「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」とあります。ここには二つの悲しみ、苦しみについて書かれています。一つは神のみこころに添った悲しみ。もう一つは世の悲しみについてです。死をもたらすこの世的な苦しみについて考えてみたとき、第一の特徴として劣等感を抱いて苦しむといったことがあります。他人がきくと、どうしてそんなことで、と思うことであっても当人は劣等感で苦しんでいるんです。
劣等感・・・一見、謙遜のように見えることもあります。しかし、裏を返せば高ぶりに過ぎないんです。ありのままの自分を神さまの前に投げ出せば苦しみが喜びに変わっていく道が開かれます。二つ目の特徴としては、不信仰の苦しみ方があります。暗い面、悲観的な面ばかりに目を向けて、上に目を向けないんです。愛なる神さまは私たちに最善を為してくださるお方です。私たちに苦しみを与えるためにだけ苦しみを置かれる方ではありません。すべての苦しみの背後に神の愛があります。その愛に気づかせるために私たちを苦しませることもあります。背後にあるキリストの愛に目を向ける必要があるんです。
それじゃ、何故・・・苦しみを与えられるんだろうか。・・・神の愛をより実感できるようになるために。また危険から遠ざけるために苦しみを与えられることもあります。さらに、きよめられるために・・・。純粋な本物の信仰者とするために、といったさまざまなことがあります。それじゃ、このように生かす苦しみ方とはどういったものなのだろうか。神のみこころに添った悲しみとは、悲しみ苦しみの原因がみこころであるといったものではなく、悲しみの苦しみの中心に神がおられる。だから、みこころに添った悲しみは神の救いという喜びを必然的にもたらすんです。
ペテロは自らの犯した罪にために苦しんだ。しかし、主のまなざしを・・・!イエスさまのまなざしを見たとき、「わたしは、あなたを愛していますよ」との優しい愛に溢れたまなざしを見た。その時に、彼は自らの罪を心から悔いた。罪そのものを悲しんだのです。
それに反してユダもまたイエスさまを裏切った・・・しかも、その自分を「友よ」と呼んでくださった。友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はほかにありませんと言われる、裏切っている自分を友と呼んでくださる。・・・彼もまた悲しみます。彼も罪を悲しんでいます。
しかし、罪そのものよりも罪の結果・・・イエスさまが十字架にかかってしまうといった結果を悲しんでいるんです。ペテロの悲しみは神中心であったのに対し、ユダの悲しみは人中心であった。苦しみを本当に苦しむ時、神の祝福は確実にその人のものとなります。
受難週・・・苦しみを遠ざけるといったことだけでなく、弱い者であることを受け入れ、それでも、なおかつ愛してくださるお方がおられる・・・その方を仰ぎ見たいものです。