「ペテロの涙」
マルコ14:66〜72
53節から65節までの箇所ではイエスさまが大祭司の支配下に置かれているサンへドリンで裁かれている様子が記されています。そして66節には「ペテロが下の庭にいると」とあるように、上の部分ではイエスさまの裁判が・・・下の部分では同時進行としてペテロの出来事が重なって起こっている・・・一方では、イエスさまが毅然とした態度で自分の信念にしっかりと立って、人々からどんなに糾弾されても、ののしられ、辱められ、裁かれても揺るがない。他方、ついさっきまで、死ぬようなことがあっても、あなたを裏切ることはないと豪語したにもかかわらず、「あなたは上で裁かれているイエスの仲間だ」と言われ・・・あわてふためいている。
マルコはこのペテロからいろんなことを教えられ、福音書を記した。そのとき、ペテロはどういう思いでこの出来事を話したんだろうか。・・・4節で「ペテロは火にあたっていた」と書かれています。下の注の欄では「光」と書かれています。「光」で自分を暖めていた。・・・大祭司の庭に入りこんできた。まだ寒かったんだと思います。そこで火にあたっていた。しかし、自分が体を暖めている火は、自分を照らし出す光でもあった。そのことを突然気づかされた。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」・・・一緒にいるのを私は見たんだよと突然女中に言われた。彼は光の傍で見つかって、あわてて光から離れようとした。光から闇へ逃げ出そうとするんです。自分から身を隠そうとした。出口に向かって行った。
しかし、女中はしつこく着いて来て「この人は、あの人の仲間です」と叫びたてた。・・・そのことに対してペテロは71節で驚くべき言葉を語ります。「彼はのろいをかけて誓い始め、私は、あなたがたの話しているその人を知りません」・・・のろいをかけて神に誓って、イエスを知らない。
しかし、ここでペテロは誰を呪ったんだろうか?・・・聖書には誰を呪ったとは書いていないんです。自分を問い詰めている人たちを呪ったんだろうか。いや、彼にはそんな勇気はなかったと思います。彼はイエスさまと同じように彼らから取り除かれるのを恐れているんです。相手を呪うことなどとてもできない。それじゃあ、誰を・・・自分を呪った。どうしてこんな所まで来てしまったんだろうか。どうして他の弟子たちと同じように逃げ出さなかったんだろうか。どうして遠くから裁判を見守らなかったんだろうか・・・お前は駄目な奴だ・・・死んでしまえ。このように自分を呪う。
呪うと言うことは自分の人生が祝福の中にないということを認めることです。神の祝福から切り離すことです。そしてもう一つ考えられることはイエスさまを呪う・・・そんなことは考えられない、あのペテロがイエスさまを・・・クリスチャンがイエスさまを呪うなんて考えられない、ありっこない・・・しかし、自分を呪う・・・どうしてこんな人に着いて来てしまったんだろう。そう言った具合に恨むと言うことはあるんじゃないだろうか。恨むと言うことは、すでに呪っているということでもあるんです。自分を否定すると言うことは自分を祝福の中に捕らえている神を否定することでもあります。そのことによってペテロは神とキリストと自分を呪っているんです。
自分がキリスト者であることを鮮やかに映し出す光から遠のいたペテロ・・・まさに闇の中に立っているんです。女中が初めに「あなたは、あのイエスと一緒にいましたね」と言った時、考えればそれは何でもない会話であったのかもしれません。「そうだよ」と言えば,済んだのかもしれない。しかし、ペテロは恐れた。恐れる理由があったと思います。そのペテロが72節をみると・・・「彼は泣き出した」・・・泣き出した。この言葉は「投げ出す」という意味に使われる言葉でもあります。神の前に・・・イエスさまの前にま投げ出す.廻りにどんな人がいようとも、神だけしかいない。その神の前に悔い改めの涙を流した。何故・・・イエスさまの言葉を思い出したから。鶏が鳴く前に3度知らないと言う・・・そのことをイエスさまは知っておられた。
知った上でなお、裏切るペテロの信仰がなくならないようにと祈ってくださるイエスさまの愛・・・イエスさまに対する畏れと自らの恥ずかしさのために激しく泣いた。舞台の上で演じられているイエスさまの裁きの中に、すでに現されている神の大きな愛が・・・下で起こっているペテロの醜い、恥ずかしい姿を包んでしまって、上に引き上げてしまうような軽さを持つ十字架・・・ペテロの涙を我がこととして受け止める時・・・主の十字架、軽やかな響きをもって迫って来るのではないだろうか。「汝の罪・・・赦されたり」・・・
マルコはこのペテロからいろんなことを教えられ、福音書を記した。そのとき、ペテロはどういう思いでこの出来事を話したんだろうか。・・・4節で「ペテロは火にあたっていた」と書かれています。下の注の欄では「光」と書かれています。「光」で自分を暖めていた。・・・大祭司の庭に入りこんできた。まだ寒かったんだと思います。そこで火にあたっていた。しかし、自分が体を暖めている火は、自分を照らし出す光でもあった。そのことを突然気づかされた。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」・・・一緒にいるのを私は見たんだよと突然女中に言われた。彼は光の傍で見つかって、あわてて光から離れようとした。光から闇へ逃げ出そうとするんです。自分から身を隠そうとした。出口に向かって行った。
しかし、女中はしつこく着いて来て「この人は、あの人の仲間です」と叫びたてた。・・・そのことに対してペテロは71節で驚くべき言葉を語ります。「彼はのろいをかけて誓い始め、私は、あなたがたの話しているその人を知りません」・・・のろいをかけて神に誓って、イエスを知らない。
しかし、ここでペテロは誰を呪ったんだろうか?・・・聖書には誰を呪ったとは書いていないんです。自分を問い詰めている人たちを呪ったんだろうか。いや、彼にはそんな勇気はなかったと思います。彼はイエスさまと同じように彼らから取り除かれるのを恐れているんです。相手を呪うことなどとてもできない。それじゃあ、誰を・・・自分を呪った。どうしてこんな所まで来てしまったんだろうか。どうして他の弟子たちと同じように逃げ出さなかったんだろうか。どうして遠くから裁判を見守らなかったんだろうか・・・お前は駄目な奴だ・・・死んでしまえ。このように自分を呪う。
呪うと言うことは自分の人生が祝福の中にないということを認めることです。神の祝福から切り離すことです。そしてもう一つ考えられることはイエスさまを呪う・・・そんなことは考えられない、あのペテロがイエスさまを・・・クリスチャンがイエスさまを呪うなんて考えられない、ありっこない・・・しかし、自分を呪う・・・どうしてこんな人に着いて来てしまったんだろう。そう言った具合に恨むと言うことはあるんじゃないだろうか。恨むと言うことは、すでに呪っているということでもあるんです。自分を否定すると言うことは自分を祝福の中に捕らえている神を否定することでもあります。そのことによってペテロは神とキリストと自分を呪っているんです。
自分がキリスト者であることを鮮やかに映し出す光から遠のいたペテロ・・・まさに闇の中に立っているんです。女中が初めに「あなたは、あのイエスと一緒にいましたね」と言った時、考えればそれは何でもない会話であったのかもしれません。「そうだよ」と言えば,済んだのかもしれない。しかし、ペテロは恐れた。恐れる理由があったと思います。そのペテロが72節をみると・・・「彼は泣き出した」・・・泣き出した。この言葉は「投げ出す」という意味に使われる言葉でもあります。神の前に・・・イエスさまの前にま投げ出す.廻りにどんな人がいようとも、神だけしかいない。その神の前に悔い改めの涙を流した。何故・・・イエスさまの言葉を思い出したから。鶏が鳴く前に3度知らないと言う・・・そのことをイエスさまは知っておられた。
知った上でなお、裏切るペテロの信仰がなくならないようにと祈ってくださるイエスさまの愛・・・イエスさまに対する畏れと自らの恥ずかしさのために激しく泣いた。舞台の上で演じられているイエスさまの裁きの中に、すでに現されている神の大きな愛が・・・下で起こっているペテロの醜い、恥ずかしい姿を包んでしまって、上に引き上げてしまうような軽さを持つ十字架・・・ペテロの涙を我がこととして受け止める時・・・主の十字架、軽やかな響きをもって迫って来るのではないだろうか。「汝の罪・・・赦されたり」・・・