2013年1月20日:説教概要
「主の心を心とする」
ピリピ2:5〜8
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それは、キリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(5)
「そのような心構え」と言うのは、3節にある「へりくだり」と言うことであり、「キリストのうちに見られるもの」と言うのは6節以下で述べられているキリストの謙遜であります。クリスチャン同士であっても、生まれも育ちも、環境、年齢といったさまざまな面において多様性の中に生きる私たちです。当然、考え方も違えば思考体系も違う・・・そこにおいて方法論も違って来るのは当たり前である。そういった多様性の中にあるクリスチャンが一致する。その土台は表面的なことにおいてではなく、「汝らキリストの心を心とせよ」と言うことにしかならないのではないだろうか。
キリスト教の中心・・・キリストご自身です。ならば、キリストご自身の中心はキリストの心です。キリストの心・・・それは満ち満ちたキリストの愛にほかなりません。それじゃ、キリストの愛はどこから出てくるのだろうか。勿論、キリストの愛はキリストの本質そのものでありますが、その愛の中心にあるのはキリストの謙遜です。このキリストの謙遜を持っている人がキリストの愛を持ち、キリストの香りを放っている。まさにキリストに似た者ではないだろうか。この謙遜を見るにあたって6節で「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」と言っています。
神の能力、栄光、権威、権威を捨てられないとは考えなかった。キリストは愛において、謙遜において限界を設けなかったということです。神であられることに固執しなかった。自分の立場や地位を捨てられないとは考えなかった。私たちは愛することにおいても、謙遜になることにおいても、ある種の限界を持ってしまいます。時間においても・・・あのことも、このこともしなければいけない・・・しかし、これは自分のものだと言って、それを掴んで放さなければ、どうして謙遜になることができるでしょう。自分の立場を手放す時、謙遜になれるのではないだろうか。
7,8節にはキリストの謙遜の積極的な面が見られます。主観的な要素と客観的な要素です。客観的な面として「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ」とあるように、まず「ご自分を無にして」・・・キリストが神の地位から降りられたこと、神としての能力、栄光、特権を捨てられたことです。
イエス様は、神であられるのに神としての能力や特権を用いることを捨てられた。しかも、すべてを支配されるお方であられたのに、仕えるという最も低い状態に降りてこられた。外見だけでなく実質的にそうなってくださった。さらに8節では「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」とあります。
ご自身の使命は仕えることにあり、その使命を従順をもってまっとうされた。自分を卑しくし・・・とは、低くすることです。水が高き所から低き所に自然に流れて行くように低くなられた。そうしなければならないと言った義務感ではなく、自発的に自由意思によって愛する者のために当然のごとく卑しくされた。
私たちはキリストのうちに何を見るのだろうか・・・「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリストのうちにも見られるものです」・・・キリストの心を心とせよ。イエスさまが、この私のためにこれほどまでに謙遜の限りを尽くしてくださった。その心を心とする・・・そこに、いかなる多様性の中にあっても、一致が保たれるのではないだろうか。それが教会のあるべき姿・・・