「大雨の音がする」
第一列王記18:41−46
エリヤがアハブに語った言葉「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから」(41)・・・この後のエリヤの祈っている姿や若い者に雲の様子を見張らせている姿・・・決して大雨の音を聞いている者の姿には思えません。どうしてなんだろうか?他の人には、その気配すら感じていないのに、見えてもいないのにどうして彼は大雨の激しい音を聞いたんだろうか。
しかし、エリヤには「雨が降る」との約束のみことば・・・みことばへの堅い信頼の確信ゆえに、はっきりと恵みの雨の音が聞こえた・・・すでに。そして、この言葉はアハブに飲食を勧めるといういたわりの言葉でもあります。
しかし、悪の元凶であるアハブに・・・彼はどうして責任を追及されなかったんだろうか、バアルの預言者たちがみな殺されてしまったことを考えると不思議でもある。不合理ではないのか。納得できない。
しかし、人がいつさばかれるか・・・それは主の御手の中にあることで、背く者の死ということさえも、主のゆるしなしにはあり得ないということであるのかもしれない。エリヤにとって必要なのは権力の奪取ではなく、その聖別が求められている。
しかし、アハブにとっては、この言葉・・・一瞬耳を疑ったのではないだろうか。目の前でバアルの預言者たちが殺されると言う顛末を見ながら、自分自身の死を考えたであろうと思います。その張りつめた緊張の糸はエリヤのこの言葉によって切れた。これですべてが一段落したとの安堵感が彼を包んだ。イスラエルの民も当然、その言葉を聞いた。彼らも夜明け前から集まって固唾をのみながら対決を見守ってきた。彼らも緊張の連続で疲れていた。
しかし、この言葉の後、三々五々家路についた。ところがエリヤは再びカルメル山の頂へと一人登って行きます。実に、アハブとは対照的である。彼は地にひざまずいて、自分の顔をひざの間にうずめて祈った。事を始め・・・事を完了されるのは神・・・しかし、その中に、神の人エリヤの祈りがあった。飲み食いのために帰って行く人々をよそに、一人地にひざまずくエリヤ・・・預言者の責任を感じる。雨の兆しを見るように若い者にゆだねた。結果を自らの手で早く見たいと思うのは人の常であろうと思います。
しかし、大雨が来るのは自然的に起こることではなく、神のみわざとしてなされるものである。だからこそ、エリヤは祈り続けて大雨を迎えんとする。みことばが与えられ、それを受け止める信仰があったとしても、祈りは苦しい戦いであったろうと思います。祈りは信仰さえあれば聞かれるといった安易な発想を打ち砕くところの真剣さがエリヤの祈りにあった。
ここには祈るということ、祈りに応えられるということ、私にとっての答え、必ずしも今の必要が満たされるといったことではない。むしろ、私の全生涯にとっての必要が満たされるということであるのかもしれない。対決に決着がついても、なおも祈り続けるエリヤ・・・しかし、彼も私たちと同じ人であった。秘訣はエリヤの祈りにあったのではないだろうか。彼を真似する・・・風貌や力ではなく、彼の苦闘に満ちた祈りを・・・みことばに対する絶対的な信頼と確信、しかし、なおかつ成就するまで祈り続ける・・・祈り。
エリヤの指示通り、イズレエルに向かって走る馬車の中でアハブはイスラエルの主をどのようなお方であるかを考えたと思います。しかし、目の前を腰をからげて走り去るエリヤを彼はどのように理解したんだろうか。エリヤの目の前の出来事の捉え方とアハブの捉え方・・・私たちはどのように捉えるのだろうか。