「恵みの深みへ」
ルカ5:1−11
1節と2節に描かれている光景・・・目に浮かべると対照的な人々が見えてきます。一方では生き生きとして、人々、群衆はイエスさまのみことばを聞こうと集まって来ている。生けるいのちのことばを聞いて生かされるために、生ける神との交わりを求めて・・・ここには「押し迫るようにして」と書かれています。これほど真剣に私たちはみことばに迫っているだろうか、考えさせられます。
しかし、この人々とは対照的にイエスさまが語っておられるみことばに背を向けて網を洗っている漁師たちがいた。漁師たちは昨日の夜から夜通し漁をしたにもかかわらず、一匹の魚も取れなかった。激しい労働にもかかわらず、あらん限りの努力をしたが成果がなかった。そういう状況の中で明日の漁のため網を洗わなければならなかった。大漁の後、網を洗うのは楽しいものです。
しかし、一匹も取れなかった・・・どういう気持ちで、彼らは網を洗っていたんだろうか。一方ではみことばを聞くために目を輝かせている大勢の人々、方や疲れ果てた失意の底にある漁師・・・今、イエスさまは疲れ果てた漁師のシモンに目を留められます。イエスさまはシモンに頼んで、舟を湖の上に出してもらった。彼は精神的にも、肉体的にも疲れているんです。それでも、次の漁のために網を洗っているんです。それを中座させて舟を漕ぎ出させた。湖の上から話をされるわけですから、これは群衆がより聞きやすくなる状況です。ですから群衆のためであると言えます。
しかし、このことは失意の中にいる人の傍で語ったというだけでなく、失意の中で失意の人を用いてみことばが語られたということでもあろうと思います。さらに、4節にありますが、「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」・・・イエスさまは、言わば公に、群衆に向かって語った後、今度はシモン一人に語られた。それも、一般概念としてではなく、日常生活の中で語られた。シモンはすでに、イエスさまの弟子になっていました。多少の知識はあったのかもしれません。でも、彼は従ってはいなかった。イエスさまについての山ほどの知識・・・大切なことではあろうと思います。
しかし、ほんの少しばかりの服従・・・どれほどの結果をもたらすことになるのか。私たちの中にも、岸辺で網を洗っているような信仰があるんじゃないだろうか。そんな中でイエスさまはシモンの職業生活の中で語られるんです。魚一匹取れないという現実・・・疲れを倍加させます。「先生。私たちは夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。でも、おことばどおり網をおろしてみましょう。」・・・このシモンの答え・・・「先生。私たちは夜通し働きましたが何一つ取れませんでした」・・・イエスさまの「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」と言われた言葉に対する答えです。漁師として専門家であるシモンに対して何の専門的知識もない、ずぶの素人であるあなたが漁を生業としている私に指図をなさるんですか、と言わんばかりの答えです。
しかし、「でも、おことばどおり網をおろしてみましょう」と言った。このことは失敗したことにもう一度チャレンジしたというのではありません。今度は神がおられる。神の言葉が厳然としてそこにある。しかも、日常生活のただ中に・・・「でも、おことばどおり・・・」みことばに対する服従があります。悲しみと失意の中であっても、主に触れ、あいまいな意識の下でも・・・「おことばどおり」と従った者には、この大漁の意味が全く違った意味を持つようになっています。「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言って主の前にひれ伏した。シモンがひれ伏したのは大漁になった・・・そのことの前にひれ伏したのではなく、そこに大漁をもたらす方がおられる。そのお方の前に身を投げ出した。今まではいろんなことを教えてくれる先生であった。
しかし、「主よ」となった。大きな変化が彼にもたらされたのです。シモンにとって、思いと行動にほんの少しではあったが誤差があった。そこに自らの人間性の中に罪人であるとの告白がなされた。ほんの少しの誤差であったように思えたものが、生き方に、人生に根本的な変化をもたらした。彼の心に「どうせ、だめだろう」という不信の思いがあった。私はこの湖の漁師であるという高慢があった。・・・つまり、イエスさまの言うことは聞いているが、従ってはいない自分がそこにあった。それが彼の罪であった。12節に「彼らは舟を陸に着けると何もかも捨てて、イエスに従った」とあります。ゼロから100になり、またゼロになった。どうして何もかも捨てたんだろうか。
しかし、初めのゼロと終わりのゼロ・・・全く違います。そこには、イエスさまという宝物が彼らの心に刻み込まれている。