2013年1月27日:説教概要
「縮み志向から伸びやか志向へ」
マルコ3:1〜6
ある外国人の書かれた文章に日本人と言うのは縮み志向であると書かれていました。盆栽・・・あるいは火鉢、こたつといった暖房・・・自由に伸びようとする枝を切って、その繊細な枝ぶりを楽しむ。また暖を取る姿・・・丸くなってうずくまっている姿がイメージされる。また神様と称され、神社やほこら、家庭にあっては神棚や仏壇といった所に納められてしまっている。これらは日本の文化であると反論したい気もするが、このような縮み志向が考え方を内向きにしてしまっていたり、閉鎖的にしているとすれば、やはり考え直さなければ問題でもある。
3節をみると「イエスは手のなえた人に立って真ん中に出なさいと言われた。」とあります。イエスさまが会堂に入られると、この片手のなえた人がいた。彼は毎週の礼拝にいつも出ていたものと思われます。礼拝に出てはいた。しかし、会堂の片隅に座っていた。その彼に向かって急に「真ん中に出なさい」と言われた。しかし、何故、彼は片隅に座っていたのだろうか。ルカの福音書には「右手のなえた人」と紹介しています。右手は利き腕である。仕事をするにあって欠かせないものであったかもしれない。うまれついてなのか、何かの原因で利き腕が利かなくなってしまったのかもしれません。自分自身で思うように生きられない歯がゆさ、不自由さのゆえに劣等感にさいなまれていた。ユダヤ人にとって出なければいけない礼拝・・・しかし、必ずしも喜びだけではない。それが片隅に座っている状況・・・自分の殻の中に閉じ込めてしまっている姿。まさに片手のなえた人の姿。その会堂にイエスさまが入ってこられた。彼が望んだわけではなかった。
しかし、イエスさまが入って来られた。そこで、イエスさまは立派な人に目を留められたわけではなかった。また何かが出来る人に目を留められたのでもなかった。どうしようもない・・・深い所で一番助けを求めている人に、自我に凝り固まっている人に目を向けてくださった。そして「立って真ん中に出なさい」と言われた。真ん中に出ると言うことは、人の目にさらされるということです。人に隠れていたい、隠しておきたい・・・弱い所、なえた手を人前にさらすなんて・・・その人に、真ん中に出て来なさい。なぜならば、出なければ解決がないからです。彼はイエスさまの言葉に従ってイエスさまの前に、人々の見ている前に出て行ったんです。ここに彼の新しい人生が始まります。「立つ」という言葉も勇気を伴います。立っていても座っていても世界は変わりません。また私たちを取り巻く環境は変わりません。
しかし、周りの人々や状況は変わらなくても、確実に私は立つことによって変わります。自分の生き方にしがみついている生活から立ち上がる・・・イエスさまの前になえた片手を隠すのでもなく、取り繕うのでもなく、すべてを露わにする。・・・その場で安らぎが与えられます。平安が与えられる。自分の弱さを隠そうとする、知られたくないという思いで隠す、苦しいものです。
しかし、すべてを知っている人に知ってもらう・・・なぜか、ほっとします。知られた、知っていただいたという安堵感が包み込みます。彼は立って真ん中に出て行った。イエスさまは、彼に「手を伸ばしなさい」と言われる。手が伸びないがゆえに苦しんでいるんです。その彼に手を伸ばしなさいと言われる。手が伸びる確信が与えられれば手を手を伸ばすことは出来ます。また、なえた手をさすってくれて、もう直ったよと言ってくれれば、伸ばすことはできるかもしれません。何も起こっていない、その状況で手を伸ばしなさい。彼は手を伸ばしました。手を伸ばしたからなえた手が癒された。・・・決して直ったから手を伸ばしたんではないんです。
パウロは言います。「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでも出来るのです」・・・何も起こっていない。しかし、イエスさまの語られる言葉に従って行く。そこに新しい現実を見ることができるのではないだろうか。