礼拝説教概要
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2012年11月25日:説教概要
主の祈り」
マタイ6:7−15

7節に書かれていることば「なぜ、何度も同じことばを繰り返して祈るのか」とイエスさまは言われます。イエスさまに出会う前、誰でもそうであったように何度も何度も同じ言葉を繰り返して祈る・・・ここには異邦人、神なき者の祈り、信仰なき者の祈り、キリストに出会う前の者の祈りの姿が現されているように思います。自分の限界を知った者が超自然的な力によって願いを実現せんとする。ゆえに繰り返さざるを得ない。この祈りは誰に教わらなくても出来る祈りです。

私たちは信仰者である、神を知っている、彼らの祈りとは違う。そう思う・・・しかし、気をつけなければならないのは、主の御名によって祈っていても異邦人の祈りと同じではないだろうかと言うことである。神なき者と神ある者の祈り・・・どこが違うんだろうか。祈る位置が違う・・・スタンスが違うんです。最終的には祈りの姿勢を神の前に正されるということにあるように思います。

主の祈りの前半の三つの祈りは神に向かう祈りである。この主の祈りは、この世にあって生きていく理由、目的を神ご自身が私たちを教えようとしておられる祈り、そのことが祈る人に現される。しかし、時には祈りが精神的な安定に縮込められてしまうこともある。ゆえに、どうせ祈っても・・・こんなことを祈ってもと、自己中心的な祈りになってしまうこともある。

祈りとは神の前に解放される事であり、豊かにされていくものである。主の祈りは「天にいます私たちの父よ」という呼びかけで始まります。旧約聖書でもユダヤ人たちが「父よ」と祈ることがなかったわけではありません。しかし、イエスさまは「アバ」と呼びかけられる。これは「お父ちゃん」とか「パパ」といった乳離れした幼子が呼びかける言葉です。このような日常の言葉で聖なる、絶対的な神を呼ぶと言うことは当時においてなかったことでもあります。それくらい、安心して親しく祈りなさい、と言われるんです。

そして「私の父よ」ではなく、「私たちの父よ」と祈る・・・主の祈りは、いつも「私たちの父よ」です。信仰は確かに個人的なものです。私の信仰であり、あなたの信仰である。密室で祈ることは大切なことであり、なくてはならないことです。しかし、一人で神の前に立つとき・・・一人でないことに気づくのではないだろうか。自分は孤独ではなく、神の群れの一員あることを知らされる。

また「私たちの父よ」と祈る時、自分さえよければという独りよがり、自分だけが正しいという独善が追放されていきます。私たちの父に心を開くなら、共に祈る兄弟姉妹にも心を開くことになる。さらに「天にいます私たちの父よ」と祈るように教えます。肉なるこの世の父に祈るのではなく、天にいます私たちの父に祈るんです。私たちの思いも及ばない計画を持ち完全な愛と義をもって養い育てることのできるお方に「天にいます私たちの父よ」と祈ることができる。

第一の祈りは、「御名があがめられますように」・・・名前というものは大切です。詩篇の9篇には「御名を知る者はあなたにより頼みます」とあるように、神さまがどういうお方であるかをわかったら必ず信頼するということが言われています。「あがめる」ということは、「聖とする」「聖であると認める」ということで。聖とするのは主の御名ですから、一言で言うとするなら「神を神とする」ということになりす。それだけ、神が神とされていないという事実があるということであろうと思います。これは人々の間でと言うだけではなく、私たち神を知る者の間にあってもどうだろうか、考えさせられます。だからこそ、祈らずにはおれないんです。

そして「御国が来ますように」と続きます。キリストの到来において、神の国はすでに到来しています。しかし、神の完全な支配は未来のことでもあります。そのとき、いのちが溢れ、正義と愛に満ちた世界、罪のない世界が出現する。・・・その希望をもって「御国が来ますように」と祈る。

そして「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることを教えられます。私たちが生かされている「地」・・・そもそも神のみこころの実現として成立したものです。しかし、人間は神に反し、自らの自由を悪用し逆らってしまった。そのことにより、世界全体が罪によって損なわれてしまった。だからこそ祈る必要がある。私たちの願うところではなく、みこころが天で行われているように地でも行われるように・・・そのために、自らがみこころを知ることができるように、みこころに従順であるように祈らされる。キリスト者がみこころを求め得ずして、どうしてこの地上でみこころが求められるんだろうか。