礼拝説教概要
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2012年11月18日:説教概要
火をもって応える神」
第一列王記18:24−40

バアルの預言者・・・彼らは見えるところにあっては、バアル側の力を誇示することができる。何と言っても、彼らは権力者の側にいる。数で争えば勝つ。富を比べても負けることはない・・・しかし、その彼らの前に一人で立ち、臆することもないエリヤの存在そのものが・・・自分たちの欠けたものである。多数や体制に依存しなければ成り立たない彼らの存在そのものに不安を感じた。エリヤは彼らに先に試みさせます。また時間も十分に与えます。これはエリヤの絶対的な自信を示すものでもあった。バアルの預言者たちは「バアルよ.。私たちに答えてください」と厳かに祈ります。

しかし、何の応答もない。そこで祭壇のあたりを踊りまわる。最後には剣や槍で血を流すまで自らの体を傷つける。相手は当然自分の意のままになると思い、厳かな悠然とした態度で、しかし、意のままにならない。すると威嚇したり、わめき、懇願する。さらには自らを傷つける。・・・状況はそれでも一向に変わらない。ここにはバアルに対する期待はあっても、信頼はないんです。あるのは一生懸命やった。熱心にやった。これだけ努力したんだから何とかしてくれるはず、といった自分本位、自己中心の信仰・・・エリヤは彼らをあざけります。もっと大きな声で呼んでみろ。寝ているのかもしれないぞ。旅に出ているのかもしれないぞ。

人間の限界と同じ限界に閉じ込められている神・・・その神を。その神を信じているバアルの預言者たちをあざ笑うんです。その預言者たちを尻目に、イスラエルの民に言います。「私のそばに近寄りなさい」・・・エリヤのこの言葉・・・それはただ単に体をここからそこへといった体を物理的に動かすといったことではなく、神への招きである。エリヤは壊れている祭壇を建て直します。主への礼拝を失っていた神の民の姿が写し出されている・・・12の石で主の名によって祭壇が築かれる。主の民が選びと契約による存在であることを再確認する意味があった。

祭壇の周りに溝が掘られ、たきぎの上にも溝の中にも、大量の水が注がれた。自然発火とか、何らかの人為的なわざによる発火のあらゆる可能性を丁寧に防ぎます。何のためにか・・・ただ、神のみわざが現れるための方法として・・・そして、エリヤは「私に答えてください、主よ。私に答えてください」と祈ります。静かな、落ち着いた、しかし確信に満ちた祈りです。神が信仰の祈りに応えてくださることを明らかにするものです。

しかし、37節にあるように「あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてほしい」・・・彼らがもともと主の所有であることを彼ら自身が改めて知ることができるようにしてください」との願いであった。この戦い・・・つまりは、エリヤ対450人のバアルの預言者という形はとっていても・・・神とその民イスラエルの間の問題として意識されなければならない。

何が本質的問題なのか・・・そのことを知ることができるように・・・火は天から降り注ぎ、一瞬のうちにすべてを焼き尽くした。その存在を火をもって、否応なしに認めざるを得ない力強い方法で示された。真の神を目の当たりにした民は「主こそ神です」と叫び、その叫びは山間にこだました。彼らの優柔不断な心を変えたのは天から下った炎・・・そして、この聖霊の炎を呼んだのがエリヤの真実な祈りであった。

人を眠りから呼び覚ます天からの炎を呼んだ。火をもってすべてのものを焼き尽くしてしまわれる神は、それでもイスラエルを憐れんでくださり、私たちの罪を火をもって焼き尽くされるために御子イエスさまを十字架につけてくださった。

イエスさまは今・・・聖霊の火をもって、私たちの罪を焼き尽くさんがために。いつの日にか、激しく燃える火で魂が焼き尽くされてしまわないために・・・。イスラエルが主の民であることを知ることを!神にあって存在の意義のあるものであることを知ることを十字架の上で切に祈っておられるのではないだろうか。