「主の祈り2」
マタイ6:9−15
主の祈りの前半の三つの祈りは、神があがめられ、神のご支配が実現し、神のみこころがなるように・・・この三つの祈りは神に向かう祈りです。
そして後半の三つの祈りは、私たち自身の必要に関する祈りです。第一に「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りです。大切な祈りであろうと思います。しかし、案外クリスチャンである私たち・・・あまり祈っていないんではないだろうか。どうして、熱心に、真剣に祈ることをしていないんだろうか。そこには、幾つかの錯覚があるようにも思います。
一つには、信仰というものは肉体のことよりも、心の問題、霊的な事柄が大切なんだといった捉え方があるんじゃないでしょうか。だから、どうしても肉体のことよりもたましいのことを祈ってしまう・・・その方が霊的であると考えてしまう。また、もう一つの錯覚は飽食の社会に生きている私たちにピンとこないといったことがあるのかもしれません。しかし、恵まれた環境に、状況にある者は祈らなくてもいいんだろうか。そうではなく、だからこそ祈る必要があるんです。「食べ物があるのは当然、時間になれば出てくるのは当然」といった錯覚から覚めるべき時が来ているんです。だからこそ祈る必要があるんです。私たちの体、健康、時間、存在そのものが神の御手の中にある。神に依存している信仰の告白であろうと思います。
二つ目の祈りは「私たちの負い目をお赦しください」という言葉に始まっています。「負い目」というのは「罪」を表すアラム語の常套句です。罪は負い目なんです。返さなければならないと思いながら、良いことをしようとしても、それ以上に悪いことをしてしまう。いつになっても、返すことができない負債・・・神様に負い目を負っているんです。多くのものを神様から任されていながら、自分勝手に使い、浪費してしまい、いつになっても負い目を返すことができない。・・・残された道は、ただ一つ、負い目を赦していただくほかないんです。神は御子イエス・キリストにその負い目のすべてを負わせられた。ですから、悔い改めてイエスさまに頼る者は、その罪が赦され、一切の負い目から解放される。
それじゃ、どうして「我らの罪を赦したまえ」と繰り返して祈るんだろうか。・・・赦しが確かでないから、繰り返して祈る必要があるんだろうか。そんなことはないんです。キリストを信じた時、義とされるんです。しかし、それで罪が全くなkなるわけではないんです。赦されていても、なお犯す罪があります。そういった罪に赦しを求めるんです。そして「私たちに負い目のある人たちを赦しました」という言葉が続きます。このことは、私はあの人の罪を赦しました。だから、神様、あなたも私の罪を赦してくださいと言っているのではありません。しかしまた、他人の罪を赦さないで、自分の罪の赦しを願うということもあり得ないことです。神に赦されるということと、人の罪を赦すということは切り離しがたいことでもあります。
14,15節にはこう書かれます。「もし、人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」私たちは、どんなに人を赦さない自分であるのか、そのことを告白する必要があります。そのとき、そんな自分をも赦してくださる主の恵みを覚え、赦された喜びが、赦す喜びの原動力となるんです。この祈りは赦されたことへの恵みと喜びの告白なんです。
そして三つ目の祈り「私たちを試みに会せないで、悪からお救いください」とあります。クリスチャンはキリストを信じた時、悪の支配から神の支配へと移されています。ですから、サタンは私たちを神の手から奪い取ることはできません。しかし、不従順で、実を結ばない者にしようと策略をめぐらします。だから、弱さを認めて主に信頼する必要があるんです。私たちの弱さの中にあっても勝利してくださる主に信頼するのです。
この祈りは弱さの告白と主に信頼する告白でもあります。前半は神に向かう祈り、後半は人に向かう祈りです。しかし、相い違う方向に向かう祈りではなく、すべての祈りが神に対する信仰の告白と言う面において包括されている・・・これが主の祈りです。