「主が建てられる教会」・・・創立記念礼拝
マタイ16:13−20
イエスさまが「わたしの教会を建てます」と言われた。この言葉が語られたのはピリポ・カイザリヤの町・・・この町はヘルモン山のふもとの近くにある外国との国境にある町。古くからギリシャの神、パンの神が祭られているところでヘロデの宮殿とともにローマ皇帝を礼拝するための神殿が建てられた場所でもあります。この町でイエスさまは弟子たちに尋ねられた。ガリラヤではなく、エルサレムでもなく、この町で尋ねられた。「人々は人の子をだれだと言っていますか」・・・彼らは答えます。「バプテスマのヨハネのよみがえりではないか」「来たるべきメシヤの先駆けとして来ると預言されているエリヤではないか」「旧約の預言者エレミヤの再来ではないか」・・・共通しているのは偉大な人物、預言者ではないか。
そんな弟子たちに対してイエスさまは再度尋ねられます。「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」・・・ほかの人がどんなふうに思っているか、考えているか、それよりも大切なことは「あなたは、わたしを、どう思っていますか」・・・本当にあなたの救い主なのか、そこに全能の神が生きておられるのか、それともキリストは歴史上の偉大な人物にすぎないのか?
ペテロが弟子たちを代表して答えます。「あなたは生ける神の御子キリストです」・・・弟子たちはイエスさまをキリストと告白します。神によって油注がれたメシヤである。神によって遣わされた救い主であると告白します。もちろん、初めから彼らにはそういった期待がありました。「この方こそ、来るべきメシヤではないだろうか」・・・そういう思いがあればこそ、ここにまで従ってきているんです。それから、彼らはイエスさまと寝食を共にすることによって、その人格に深く触れ、教えを聞き、働きを見てきた。
その結果「あなたこそ生ける神の御子キリストです」との告白に至った。この告白に至ったとき、この地方に祭られているギリシャの神々や、皇帝礼拝との違いを意識させらたに違いないのではないだろうか。このペテロを代表とする弟子たちの告白に対してイエスさまは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と言われた。この言葉を言わしめたのは、人間の知恵や経験、洞察によるものではなく、神からの啓示によって生まれたものである・・・このことが幸いである。このペテロの告白に対して言われます。
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」・・・ペテロ、ギリシャ語で「岩」を表す言葉です。「あなたは岩です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」・・・ペテロの上に教会を建てる。ここでペテロの上にと言うのはペテロの信仰告白の上にということであって、必ずしもペテロ個人を捉えているわけではありません。
しかし、やはり信仰の告白をしたのは誰かと言うことが問題になります。ペテロなんです。ペテロという人・・・どういう人物であるかというと、「岩」というより「スポンジ」のような人であるのかもしれません。「たとい、死ぬようなことになろうとも、あなたについて行きます」と言ったすぐそのあとに、「私はこのような人は知らない」と3度もイエスさまを否んでいます。またここでも21節からの記事を見ると、すばらしい信仰告白をしたあとでも人間的な見方しかできずにイエスさまに「さがれ。サタン」と厳しく叱責されています。
そのペテロが語った信仰の告白・・・神様は人間的な弱さ、失敗、軽率さ、そういうものを持ったペテロの信仰の告白の上に「わたしは教会を建てる」と言われた。ここで大切なのは「わたしが・・・わたしの教会を建てる」と言われていることです。イエスさまがイエスさまの教会を建てる・・・どこに・・・ペテロの信仰の告白の上に・・・私たちの教会・・・だれが建てるのでしょう。私たちの教会・・・何の上にたっているのでしょう。私たちの信仰告白・・・どこに立っているのでしょうか。岩井キリスト教会・・・57回目の創立記念礼拝に際してもう一度心にとめたいものです。