2012年10月7日:説教概要
「混迷社会に一人立つ」
第一列王記18:16−24
アハブが語った17節の言葉「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの」・・・アハブ王が飢饉の苦しみの中でエリヤと出会った時の言葉です。現在の飢饉・・・すべてエリヤのせいであるとしたい、そこから来る言葉です。自分の置かれた現状を他人のせいにする。何もアハブだけではなく、人間の常套手段であるのかもしれません。責任転嫁をせずにはいられない・・・それに対し、エリヤの答え「あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」(18)イスラエルを煩わしているのは私ではない。あなたがイスラエルを煩わせているのではないか。王はイスラエルあってのあっての王である。
しかし、勘違いをしやすいものでもあります。私あってのあなたでしょう。・・・教会があっての牧師であり、国民があっての為政者である。決してその逆ではないんです。神がおられての教会である。イスラエルは主に従うことによって成り立つ存在であって、主に背くことは自分の存在理由そのものを否定することになってしまう。「あなたはバアルのあとについています」・・・バアル崇拝が神の民としてのイスラエルをどれだけ煩わしているのかもわからないほど、アハブは神からかけ離れていたということです。
しかし、そのイスラエルへの神の愛は変わらない。警告の器としてエリヤがアハブの前に立っている。それは裁きのためではなく、神の愛の現れ・・・立ち返りなさい。エリヤは19節で「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルとイゼベルの食卓につく450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者とを集めなさい」・・・どうして全イスラエルを?民衆・・・彼らもまた王と共に偶像を抱えて自らの利益の拡大を求めている。必ずしもアハブ王の犠牲者ばかりとは言えない。アハブのもとにあって主体性を失っている者がもう一度、自らの責任ある立場を自覚させられる。この戦いはイゼベルの食卓につく者たちと言われているように明らかにイゼベルを意識したものである。
しかし、エリヤの使命はイゼベルを倒すことにあるのではなく、イスラエルの民の信仰を揺り動かし、混合宗教のまどろみから民の目を覚まさせ、唯一の神を神とする生き方を選ばせることにあった。21節をみると「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか」とある。アハブにしてもイスラエルの民にしても神を捨てた覚えはない。ただ、バアルにもいけにえをささげているだけである。
しかし、主とバアルの両方に仕えているということは、主に仕えていないと言うことである。「いつまでも」・・・この言葉はイスラエルに対する高い評価の言葉でもある。「まことの神を知っているあなたがたが・・・どうして・・・いつまでも」彼らは深く考えた結果、主よりもバアルが優れていると判断したのではなく、根本的な問題は世の体制に流されている。
しかし、そのことは主に従うことと正反対のことである。そして「もし、主が神であれば・・・」とエリヤは民に問いかけます。自らが選択を決断する・・・しかし、その決断の結果は自らが負うことを強調します。民が一言も答えることができない。その民に向かって「私ひとりが主の預言者として残っている」・・・旗色を鮮明にしない民に向かってエリヤは1対450という数字を強調する。
多数を恐れることも多数により頼むことも同じことの裏表・・・しかし、エリヤは一人であることを恐れない。それはまことの神がおられるから。神プラス1も神プラス1000も同じである。エリヤは自ら決断せよと民に迫る。しかし、このことはイスラエルの民を追い詰めているのではなく、自らを「まな板」に載せているのである。自らのいのちを・・・民に神の愛に気づいてほしいとの願いゆえに・・・。