「二者択一のはざまで」
ピリピ1:21〜26
日常の生活の中にあっても、相反する二つの事柄に挟まれ身動きが取れなくなったり、悩んだり、思い煩ったりすることが結構多いものです。就職か進学か、結婚か仕事か、恋を取るか出世の道か、公の立場か個人の信条か、とても両立できないと思われる二つの立場の板挟み・・・その中にあってのジレンマ・・・。
パウロも23節で「私は、その二つのものの間に板挟みとなっています。」と二つのことの間にあって進退相極まって、態度を決しかねている。良いことと悪いこと・・・そういうことならば、また良いこと同士の中であったとしても、自分の中である種、優劣をつけられるものであるならば多少悩むことはあるかもしれないが、またどちらを選ぶかということとは別にして、本来的に選ぶべき事柄は分かっている。しかし、彼がここで悩んでいるのは「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」・・・両方ともすばらしいことである。自分にとってはどちらもすばらしいことである。ゆえに、どちらを選んでいいか分からない。彼にとって生きることも死ぬことも祝福されたものである。この地上においてキリストと共に生きるべきか、それとも天上においてキリストと共にいるべきか・・・ましてや、パウロにとって「最上の喜び、目的はキリストと共にいることがはるかに勝っています」と言うならば、板挟みは当然のことでもある。
しかし、実のところパウロは「私の願いは世を去ってキリストと共にいることです」と言っているように死を願っています。彼にとって死を願うということは、この地上において走るべき行程を走り終えてキリストと顔と顔を合わせて交わりを持つことを意味します。パウロが生と死の板挟みになったということは、キリストに仕えるべきか、キリストと共にいることを喜ぶべきかということでもあります。「私の働きが豊かな実を結ぶ」ことと「キリストと共にいる」こと・・・最愛のイエスさまと共にいることはキリスト者の究極の、最高の祝福です。
しかし、にもかかわらず、パウロはキリストに仕えることを選びます。・・・何故なんだろうか?パウロの働きが宣教の実を結ぶことになるから・・・生きることはキリスト、死ぬこともまた益です、と言います。
しかし、彼は自分のための益ではなく、宣教の実を選び取る。実を結ぶことは主の願いであり、神の栄光を現すことでもある。またこの板挟みは、自分のためかそれとも他者のためかという二者択一でもあります。23節で「私の願いは・・・」とあり、24節では「あなたがたのためには・・・」とあります。パウロが最終的に生きることを選びたいという思いになったのは、決して自分の願いを実現させたいという思いではありません。彼が望んだのは・・・人のために尽くしたかった。「この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」パウロが自己中心的な生き方ではなく、他者中心と言うよりは主の喜ばれる生き方を望んだことがわかります。
ピりピの教会は、今パウロの助けと指導を必要としています。しかし、それ以上にパウロの存在そのものが必要であった。だからパウロはこの地上にあってキリストに生きることは個人的な願いにはそぐわないかもしれないが、兄弟姉妹たちのためにキリストにあって生きる道を選びとった。・・・他者のために生きることが主のみこころであることを確信するがゆえに・・・今、生かされているなら、生きることが神の備えてくださった最善の道である・・・