「永遠という観点から」
ピリピ1:19〜20
「私がどういう場合にも恥じることなく、いつものように大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」(20)パウロはいついかなる時、状況にあっても現在という時の中で現実を真正面から見据えている。神様が与えて下さった自分にとっての永遠の計画の中で今日という日、今という現在の時が与えられている・・・その.今を精一杯生きる。
パウロの切なる願いと望み・・・それはキリストのすばらしさが現されることである。イエスさまが私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった。その愛がすべての人に伝えられること・・・そのことが19節で明確に伝えられています。「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが救いとなることを私は知っているからです。」
・・・「というわけは」・・・12節から18節に語られているようにパウロの身に起こっている一連の出来事を表しています。この大きな試みをパウロはピリピの教会の一人一人の熱い祈りと生きた信仰に支えながら、また聖霊の助けによって、現在の試みを永遠と言う視点から捉えています。「このことが私の救いとなることを知っています」・・・パウロの身に起こったことが救いとなることを知っている。不思議な感じがする表現です。パウロは既に救われているのに・・・しかし、聖書には救いということばについて3つの意味があることを教えています。
一つは義と認められる・・・「義認」です。私たちがイエス様の十字架を自らのものとして受け入れる時、その時点で救われるといった意味・・・この意味においては救いは一回限りのものです。
しかし救いの二つ目の意味は「聖化」・・・神様によってきよい生活に入れられるということです。キリスト者は救われた時点でイエスさまの「きよさ」が転嫁されます。だからこそ、日々の生活の中で救われ続ける必要があります。救われて洗礼を受ける・・・信仰者としてのスタートです。決してゴールではありません。
そして3つ目の意味として「栄化」ということがあります。完全に贖われてキリストの満ち満ちた身丈に変えられるという約束です。パウロがここで「救い」と言っているのは、日々きよめられていく「聖化」のことであり、終わりの日に完成された主ご自身の栄光のからだに変えられる「栄化」の意味での救いを言っています。
パウロは今直面している出来事が聖化のプロセスを通り、自らの成長となり、究極的には救いの完成へとつながっていく。・・・私たちをきよさにあずからせ、霊的な成長をなさしめる方法、手段には二つの要素があげられます。
一つは執り成しの祈りです。もう一つは聖霊の助けです。パウロはピリピの教会の一人一人のために祈り続けています。またパウロの祈りに応えて教会もパウロのために絶えることなく祈り続けています。こうした祈りの交わりがあったからこそ、救いが彼らの祈りによって完成へと進んでいくことを堅く信じています。
キリスト者が祈りの友となって祈る時、神の御業は豊かに前進します。さらにパウロはきよくなることを意識し、努力する・・・それは.大切ななくてはならないことである。しかし、それが用いられるためにこそ聖霊の火によって焼かれ不純物が取り除かれる必要を語ります。
そしてそのことが20節で語られていることと結びつくんです。自分の救いの目的がこの二つのことにあると言っています。大胆に語ることとキリストの栄光を待ち望むこと。彼が望んだのは自分の栄誉ではありません。地上的な成功でも、この世の安定した生活でもありません。生きるにしても、死ぬにしてもわが身を通してキリストが崇められることであった。そのすばらしさを知ってもらうことであった。それは自らの現在が、過去が・・・永遠と言う観点から捉えることが出来る幸いであろうと思える。だからこそ、今日という日を精一杯神との交わりの時として生きることができる。