礼拝説教概要
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2012年8月5日:説教概要
まず、わたしのところに」
第T列王記17:8〜16

私たちを助けてくれる人、養ってくれる人・・・期待します。力ある人を!能力のある人を!・・・しかし、エリヤを助けるためにツアレファテの町の門で待っていたのはたきぎを拾い集めているひとりのやもめであった。町の門・・・町の入り口であり、その町のしるしでもある。その町にいるひとりのやもめ・・・町の困窮のしるしでもある。.神はエリヤを養うために貧しいやもめを選ばれた。しかも、彼女を選んだだけではなく、彼女の最も厳しい逆境を選び、その中に神の栄光を現そうとされた。

やもめの生活は極限状況であった。エリヤは決して贅沢をしたいと思ったわけではない。彼が彼女に要求したのは、ほんの少しの水と一口のパンであった。しかし、彼女の家の食料を全部集めても・・・出てくる物は一握りの粉とほんの少しの油しかない。それを薪で調理すれば小さなパンができる。要求はごくわずかである。

しかし、その要求に応えるためには彼女の生活の全てを投げ出さなければならない。それほど、やもめの生活は困窮していた。さらにエリヤが要求したのは、全てをはたいて出来るパンを食べたのち、一緒に死のうとしている親子の最後のわずかな喜びを奪うものでもある。「2,3本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです」・・・この彼女の言葉に対してエリヤは「恐れてはいけません」と答えています。「恐れてはいけません」・・・このことばは、救いのわざが始まる前奏曲として聖書では多く用いられています。

神の救いのわざが今から始まるのです。心が折れてしまってはいけません。すべてを見失っては.いけません。・・・そしてエリヤは彼女に信仰の挑戦としてのことばを語ります。「行って、あなたが言ったようにしなさい。・・・しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの息子のために作りなさい。」ある物は少しである。それを使ったら自分と息子の分はなくなってしまう。・・・ここで、神様の信仰の挑戦をみると、たとえわずかであってもあるものに対して行われています。やもめが持っていないものは際限がありません。

しかし、ないものには関心を示されない。持ち合わせているものに関心を示される。実際に持っているものをどのように使おうとしているのか、そこに関心がある。「まず、私のところに持って来なさい」・・・これは極限状況において何に信頼するのかを問いかけることばです。

最後に残ったのは、一握りの粉と油・・・それでパンを焼いて神のところに持って行く・・・生存の全てを神に任す。生きるすべてを神に信頼する。絶対的な信頼以外のなにものでもない。聖書を読む時・・・感じるのは書かれていることの非現実的に思われる出来事である。言われていることと現実のギャップの中で戸惑いを覚えてしまう。そういった時に、「神の国とその義をまず第一に求めよ」と言われても、何の抵抗もなく、ことばどおりに生きること、誰が出来るのだろうか。「そうすれば、あなたがたに必要なものは添えて与えられるであろう」と言われても、信仰第一とはなりにくいものである。

しかし、考えなければいけないのは・・・それを誰が語っておられるか、誰が約束してくださっているかということである。神がおことばを語っておられる・・・私に。私は何を信じ、何に信頼を置いて生活しているんだろうか。やもめは、神のことばを額面通り信じ、「行ってエリヤのことばどおりにした」・・・このまっすぐな.信仰に対して、神の約束もスト−レートに成就した。語られた約束通りに「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」