礼拝説教概要
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2012年7月22日:説教概要
私は何処に行くのだろうか」
ルカ16:19〜31

この箇所から今日は3つのことをみてみたいと思います。

一つは天国と地獄、実際にあるということです。金持ちもラザロも死んだ。その後、ラザロはアブラハムのふところ(天国)で生活をし、一方この世で何不自由なく生活した金持ちはハデス(地獄)の苦しみの中に置かれます。日本人は死んだら終わりと言ったり、死んで楽になりたいといったことを言います。しかし、聖書は言います。死んだ後、一人残らず天国に行く者と神の裁きに会う者に分けられる。「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。」

そして二つには、天国と地獄の間には大きな淵があって、そこは行き来することができない。26節にはこう書かれます。「私たちとお前たちとの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」

そして3つ目のこととして、死んだ後に天国に行くか地獄に行くかとということが決まるんじゃないということです。貧しいラザロ・・・彼はただ死んだとだけしか書かれていません。これに対し、金持ちは死んで葬られた。ラザロは貧しかった。多分、身内もいなかったのでしょう。だから葬式もなかったものと思われます。金持ちはというと、立派なお葬式をしたのでしょう。しかし、どんな立派なぎょうぎょうしい葬式をしても、そんなことで私たちが何処に行くのかということは決まらないんです。それよりも生きている時にどのような生活をしたのかということが問題になってきます。

しかし、どのような生活をしたかということは、人よりも立派なことをしたとか、しなかったとか、そういったものでないことは言うまでもありません。私たちが天国に行くことができる道は、自らが罪人であることを認め、その罪のためにイエスさまが十字架で死んでくださり、3日目に死人の中からよみがえってくださった。そのことを信じれば、私たちの罪は赦され永遠のいのちを与えて下さると約束してくださっています。この金持ち、悲しいことに地獄に行ってしまった。このことは今となってはどうしようもないことです。親しい者が、愛する者が天国に行くことができなかった。そんな時に、愛する者が行けなかったのだから、と思ってしまうこともあります。

28節にはこう書かれます。「私には兄弟5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」・・・むしろ、私はこんな場所で苦しんでいる。だから、あなただけは、こんな場所に来ないように・・・天国に行って欲しいと願っている。私は何処に行くのだろうか・・・自らのために、・・・愛する者のために、日々祈らされます。