2012年7月15日:説教概要
「福音が伝えられる喜び」
ピリピ1:12〜19
12節には、こう書かれています。「さて、兄弟たち、私の身に起こったことがかえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」パウロの身に起こったこと・・・このことが福音の働きをストップさせたのではなく、かえって福音を前進させる要因となった。パウロの身に起こったこと・・・イエス・キリストを宣べ伝えた、そのことによってローマの牢屋に投獄された。このことは、あの偉大な伝道者が福音を語る自由を奪われてしまったということですから、福音の広がりが阻害されるという大きな危険性を伴う重大な問題である。
しかし、パウロの身に起こったことが福音の前進を妨げるどころか、かえって福音宣教の推進力となった。「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」というみことば約束のとおりです。13節にはどのようにして広がっていった、かということが書かれています。「私がキリストのゆえにとうごくされている、と言うことは親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり」とあります。パウロの投獄の理由がローマで明らかにされたことにより、福音が外に向かって前進したことがあげられています。パウロが囚人として捕らえられることによって親衛隊の監視のもとに置かれた。囚人としての立場に置かれたがゆえに、親衛隊に福音を語る絶好の機会が与えられた。そういった状況に置かれなかったら、当時のローマの状況からいって、みことばを伝えることは難しかった。
そして、もう一方で福音は内側にも向かって前進しています。14節では「また兄弟たちの大多数は私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」・・・兄弟たちが主にあって信仰的確信を与えられた。投獄され、獄中にあっても勝利に満ちた信仰と喜びをもって語っている姿に、兄弟たちは励まされ勇気づけられた。パウロの信仰的勇気が兄弟たちにも信仰的勇気を与えた。そして、彼らは恐れることなく大胆に語った。パウロが獄中で福音を語っているなら、自由な自分たちはもっと福音を語れるはずだと確信させられた。指導者が捕らえられたのだから、語るのは自分たちの当然、なすべき奉仕だと自覚したのです。福音は内に向かって広がり、さらに兄弟たちの内から外に向かって前進していった。
しかし、15−18節をみていくとき、福音が必ずしも純真な動機や真実によってだけ広がっていったわけではないことを描いています。15節にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える人がいた。彼らもキリスト者です。語っている福音もまじりっけのない福音を語っています。ただ、動機に関しては純粋ではなかった。ねたみが混在していた。熱心に奉仕を続け、危険な状況にあっても語り続けた人の中にもねたみがあった。
彼らはパウロが投獄され、外部からとざされた時、心の底で喜ぶのです。同じ福音の戦士でありながら・・・そして彼らは宣教に熱心になります。しかし、それは主に対する熱心ではなく,党派心によるものです。彼らの熱心な働きの中にあっても、究極的には自分自身のこと、教会への自分の影響力のことしか考えていない。
18節でパウロはこう言います。「つまり、みせかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。今からも喜ぶことでしょう」その人々がパウロに苦痛を与えたとしても、キリストが人々に知られる手助けをしていることになります。すべてのことを相い働きて益としてくださる。私は何を喜びとしているのだろうか。・・・私が用いられることなのか。・・・誰であっても用いられ、救いの道筋が照らし出されることなのだろうか。