2012年7月8日:説教概要
「涸れゆく川の岸辺で」
第一列王記17:1〜24
2節をみると「それから、彼に次のような主のことばがあった。」そして8節にも「すると、彼に次のような主のことばがあった。」・・・一つのことを終えてほっとする。そんな時、次の奉仕、用事を頼まれると、「どうして初めから全部言ってくれないのですか。初めからわかっていればもっと違ったやり方もあったのに・・・」そう思う時もあります。
しかし、神のしもべは、神のことばに一歩ずつ歩む。そこに大きなことが隠されている。3節で「そこを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そしてその川の水を飲まなければならない。わたしはカラスに、そこであなたを養うように命じた。」・・・神の器が自分で神の力を持っているわけではない。イスラエルが干ばつの裁きにさらされる時、エリヤだけが例外的に雨にあずかるわけではありません。自らが宣言した飢饉・・・その飢饉を自らも忍ばなければならない。そして貪欲なカラスに養われ、その川の水を飲む。カラスにそんなことが出来るのだろうか。・・・神が言われた。だからエリヤは従った。
しかし、ケリテ川の水もやがて涸れてしまう。当然、彼はまた動かなければならない。人間・・・少しでも、慣れた所から離れたくないものである。慣れた場所、慣れた思い・・・そこが今まで安全であった。しかし、その安全な思いの中に留まることが平和の備えではないような気がする。主に従う、という関係に中に主の民の平和の条件がある。そこの水も涸れてしまった。エリヤは神の言葉を確認しながら一歩一歩導かれるみことばの通りに行動していった。その時、次のことばがエリヤに示されます。
9節をみると「さあ、シドンのツアレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこの一人のやもめに命じてあなたを養うようにしている。」・・・彼女自身にはエリヤを養う力など全くないにもかかわらず、養う者として、この仕事を彼女に与えておられる。主がそのやもめを通してエリヤを養い、主がエリヤを通して、またそのやもめを養ってくださる。相手が誰であれ、どういう形であれ、自らが主によって養われている。そのことを知ることは幸いなことであろうと思う。
しかし、この一連の出来事・・・なぜ、エリヤはケリテ川に行かなければならなかったのだろうか。何故、この貧しいやもめの家に行かなければならなかったのだろうか。エリヤ自身、アハブ王に対して「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私の言葉によらなければ、ここ2,3年の間は露も雨も降らないであろう」・・・かっこよく言い切っています。「私のことばによらなければ・・・」雨が降るも、降らないも私次第である。・・・神の力である。
しかし、私が用いられている。この私が・・・しかし、ケリテ川、そこで経験したこと・・・自分では何も出来ない。一方的に養われるだけである。自らが、賜物が大きく用いられる。しかし、ケリテ川において、人生におけるへりくだりを学ばされる。このケリテ川において、私が・・・ではなく、主が私を用いてくださっている。ただ恵みのうちに・・・そのことを教えられる。涸れゆく川の岸辺においてエリヤは何を思ったのだろうか。明日は水が涸れてしまうかもしれない。カラスは明日も肉を持ってくるのだろうか。
しかし、主はケリテ川という賜物ではなく、ご自身を与えようとしてくださっている。その日々の、主からの訓練に導かれて歩むことこそが人生にとって大切なことではないだろうか。