礼拝説教概要
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2012年7月1日:説教概要
恵みを共有する教会」
ピリピ1:3〜11

パウロは3,4節をみると・・・ピリピの教会、また一人一人のことを思うたびに、いつも神様に感謝し、喜びを覚えさせられる、と言っています。このピリピ書はエペソ書、コロサイ書、ピレモンへの手紙と共に獄中書簡と呼ばれています。つまり、ローマの牢獄から書かれている手紙です。自分の死がまじかに迫っていることを自覚し、明日をも知れない、そういう状況に置かれた環境で感謝します。喜んでいます、と言っている。どうして、そういう状況の中で、喜び、感謝することができたんだろうか。

その理由として5節でこう書かれています。「あなた方が、最初の日から、今日まで福音を広めることにあずかってきたことを感謝します。」とあるように、ピリピの教会の人々が福音に生かされている、のみならず福音を広めることにあずかっている。・・・そのことを感謝し、喜んでいる。

かつて下宿を共にした宣教師が・・・日本の教会が、兄弟姉妹が宣教地における喜び、困難を共有してくれている。それが最大の感謝ですと語ってくれたことがあります。パウロによって伝道されてから、この教会が手紙が書かれるまでに10年近くの歳月が経っています。人間的には休みたくなるようなこともあったのかもしれない。でも彼らは継続した。ピりピの教会はパウロを支え続けたのです。獄中における今も、エパフロデトを送り込んでパウロの働きを支え続けている。このようにパウロと共に福音を広めることにあずかってきたピりピの教会・・・さぞかし、人間的に見ても立派な教会であったろうと思われます。

しかし、その教会・・・それだけのことをできる教会だったんだろうか。経済的にも、人材の面でも豊富だったんだろうか。救われたばかりのルデヤの家族と、女奴隷であった人、看守の家族、それだけである。しかも、救われたばかりの彼らには成長のための導き手が必要であった。パウロはシラスはテモテは、ルカは幾日も経たないうちにピりぴを離れている。彼らの経済状態をみても、コリント書にはこう書いています。「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれるよろこびは、極度の貧しさにもかからず、あふれ出て、その惜しみなくほどこす富となったのです」

教会は極度の貧しさにあった。それ以上に、聖徒たちを支える支える交わりの恵みに預かりたいと熱心に願ったのです。・・・何故、彼らはそのようなことができたんだろうか。福音に預かる者とされる、その喜びをしったからではないだろうか。「主は富んでおられたのに、そこにおられたのに、そこには、貧しくなられましたあなたがために、あなた方は貧しくなられました」

何故、彼らはそのようなことができたんだろうか。「主は富んでおられたのの、あなたがたの、あなたがたのために貧しくなられました」そのことによって、今のわたしがある、喜びがある。誰もが開拓のわざに召されているわけではありません。宣教師として召されているわけでもありません。しかし、その働きを自分の重荷として自らのわざとして祈り、ささげる。そこに恵みを共有する教会としての歩みがある。