礼拝説教概要
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2012年6月24日:説教概要
「希望ある人生へ
ヨハネ5:1〜9

希望・・・すばらしい響きを持った言葉です。何か、こう心の中がほのぼのとあたたかくなってくる・・・そんな気持ちになってきます。でも、人によっては「希望」そんなすばらしい響きを持った言葉であっても、そういう言葉を聞くだけで、もっと辛く、もっと悲しくなってしまう方もおられるんじゃないでしょうか。希望の中を歩んでいる方にとってはすばらしい。しかし、それは希望、喜びを掴むことができる、またその可能性のある方にとっては・・・。でも、その可能性のない方にとってはどうなんだろうか・・・しかし、人生には180度、転換する転換点というか、分岐点というものがあります。

ベテスダの池・・・どういう池でしょうか。その水がかき回された時、一番最初に池の水の中に飛び込んだ人、その人の病は癒されるのです。・・・恵みの池です。その池の周りには大勢の病人がいます。目の不自由な方、足の不自由な方、食べる物も食べられず痩せ細った人・・・そういう人が・・・我先にと池に向かって競争をするんです。直る見込みのない人たちが集まって・・・しかも臥せっている状態で、人を出し抜いてでもチャンスを掴みたい。あの人のことも、この人のこともわかる・・・でも、私が生き残るために、直るためには・・・壮絶な戦いが繰り広げられている。まさに、私たちの社会の縮図・・・いや心の中で日々、行われている状態ではないだろうか。この男の人・・・長い間、直りたいと願っている。

しかし、そのチャンスをものにすることはできない。彼は毎日、この場に運んできてもらっている。しかし、他の人以上には身体が動かない。いつになっても自分の順番は回ってこない。それなら、どうしてそこにいるんだろうか?そこにいても仕方がないなら、いなくてもいいんじゃないのか。・・・それは他人だからそんなことが言えるのであって、ひょっとしたら・・・何かが起こるかもしれない。直るかもしれない。この池にいる限りにおいて、ほんのわずかな希望であっても持つことができる。そこにいること・・・そのことが希望であるのかもしれない。

そんな彼の前にイエスさまが立って言われた。「よくなりたいか」・・・頑張ったり、努力したり、技術的な裏付けがあって手に入れられる可能性のあるものならば、あれも欲しい、これも欲しいと思う。しかし、それこそ決定的に手に入れられる立場に自分がない時・・・「よくなりたい」という願いは、逆に苛立たせ、不安におとしめられるものでもある。「よくなりたいか」という問いかけに対し、彼は「よくなりたいのです」「あなたが私を水の中に入れてください」とは言えず、「主よ。水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」と答えています。「よくなりたい」という思いを通り越して誰も私を入れてくれない。誰も入れてくれない・・・「よくなりたい」「助けてほしい」と言う願いはある。

しかし、立ちはだかる目の前の現実・・・その現実の重みに「よくなりたい」という思いは知らず知らず・・・心の奥深い所にしまい込まれてしまっている。これ以上の絶望感を味わいたくないがゆえに、しまい込んでしまっている。この場所にいるという、わずかな望みを持っているという現実の中に、最後の望みを決定的に奪われたくないがゆえに、希望を押し込んでしまっている。希望を持っては・・・期待してはいけないんだと言い聞かせながら、今日も恵みの場・・・べテスダの池にやって来ている。

そんな彼にイエスさまは立って下さった。絶望の中に押し込められている、かすかな希望の光を見出してくださり「よくなりたいか」・・・心の奥底にしまい込んでしまっている希望の光を呼び起こし、祝福のための準備をさせてくださる言葉・・・この言葉によって、堅く閉ざした氷の塊のような心を溶かしてくださり、「よくなりたい」との思いを持たせて下さる優しい言葉・・・人が自分で救われる備えができる以上に、はるかに救う準備をしてくださっている主の愛の深さ、広さ・・・良いことを喜んで受け入れる以上にはるかに良いことを行ってくださる。イエスさまは水の中に入れてくださる代わりに「起きて床を取り上げて歩きなさい」・・・その声に向かって歩みだす。そこに希望の人生へと変えられる転換点、分岐点がある。