2012年6月17日:説教概要
「喜ぶ者と共に喜ぶ」
ローマ12:14〜21
キリスト者であってもなくても、多くの迫害に直面することがあるんじゃないだろうか。そんな時、キリスト者ならばどうすべきなんだろうか・・・相手が悪いのだから反抗する、抵抗する、仕返しをする・・・何も悪いことではない、そのようにも思える。
しかし、14節をみると・・・「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」・・・迫害する者のために祈りをもって迫害に直面しなければならない。そんなことは出来ない。いや、したくない、それが本音であるのかもしれません。しかし、感謝なことに私たちには模範があります。十字架の上で自分を殺そうとする者のためにイエスさまは祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と祈られたイエスさまを模範とすることができます。今まで、あらゆる時代の殉教者たちが示してきたこの罪の赦しほど、人々を信仰に導いた偉大な力はありません。
今でも、多くの人がキリスト者である家族を迫害することもあります。「あんなところへ行くのはやめろ」「キリストと私とどっちが大切なんだ」・・・未信者の家族を抱えた方は経験したことがあると思います。しかし、そういう迫害をする人が信仰を持つに至ったこと・・・;非常に多いんです。なぜかと言うと、彼らがキリスト者がいかに罪を赦すことができるかを知ったゆえなんです。迫害する者を赦す、いや、祝福することは人間として極めて難しいことです。ですから、祝福すべきであって呪ってはいけません、と重ねて強調しています。
そして15節では・・・「喜ぶ者といっしょに喜び,泣く者といっしょに泣きなさい」とあります。ここでは勧めと言うよりも命令されています。これはキリストにある一体性に基づくものです。私たちが一人一人が人間の身体の各器官・・・心臓であったり、頭であったり、目や鼻や口、手であったり足であったりするのと同じように、キリストをかしらとする各器官である。私とあなたは別々の器官ではあるが、一つの身体として、なくてはならない一体性を持ったものである。だから、悲しんでいる人がいたらともに泣き、喜んでいる人がいたら共に喜びを分かち合う。しかし、悲しんでいる者と共に悲しむ・・・それ以上に難しいのは喜ぶ者と共に喜ぶ。これは嫉妬、ねたみから遠ざかるだけでなく、称賛されている人と共に喜びを共にする。・・・特にもし、その成功が自分に落胆を伴うならば、一層難しい気がする。私たちが他人の成功を自分のこととして喜ぶことができるのは、ただ利己心が死んだ時だけであるのかもしれない。
だからこそ、一体感・・・主にあって一体であるとの自覚が求められる。そして16節では、キリストにあって一体とされた者として、民族、地位、性別を超えて一つ心となりなさい、と勧められています。これは画一的に、機械的に同じ考えを持ちなさいということではなく、他者との関係において高ぶった思いを持たないようにと言うことです。私たちが神の子、神の民、聖徒とされているということは、あらゆる階級、富、出生とは無関係である。
さらに18節では「あなた方は、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と、あります。すべての人と平和を保つためには、あらゆる努力をしなければならない。どれだけ主体的に平和のために努力しなければならない。相手の態度や結果を問題とするのではなく、あなたの側では最善を尽くしなさい。イエス様は十字架につけようとするほどまでに無視していた、敵対していた私たちのために・・・自らが十字架にかかってくださった。そのことを思う・・・平和があるかどうかが問題なのではなく、平和のために主体的にどのように関わってたかが問題である。
そして平和を保つということは、自ら復讐しないということである。神に信頼するということである。神に信頼するということは、相手に善を積むこと・・・ここに完全なる愛がある・・・そんな愛、私は持っていない。そうではなく、主に信頼した時・・・主からいただいた愛・・・それを用いる、発揮する。