「キリスト者の日常生活」
ローマ12:9〜13
ここで言われていること、一言で表すなら「愛のある生活をしなさい」と言うことです。クリスチャンの愛・・・それは真実な愛であるということです。
「愛には偽りがあってはなりません」と言われています。愛にはさまざまな形態があろうと思います。愛には、自分にとって、そのことをするのが得であるか損であるかといったことを考える打算的な愛のごときものがあります。また与えるよりも獲得することを目的とする利己的な愛もあります。
そういった打算的な愛や利己的な愛であってはならない。偽善やいかなる裏面の動機もあってはならない。しかし、そんな愛を私たちの日常生活において発揮できるのだろうか。そうした愛のある生活を営むことができるのはキリストを愛することによってのみ可能となってくる。
そしてこのような愛は・・・悪を憎み善に親しむといったことが求められています。
悪を憎む、このことは自らの生活において結果がどんなに良いものであっても、それが悪である限り・・・結果ではなく、そのものを憎む必要があるということです。
二つ目のブロックでは「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」と言われます。愛は観念ではなく、現実の生活の中で生かしなさい、現実の生活であるということです。
現実の生活で愛をいつも実践することは難しいのかもしれません。だからこそ、「尊敬」しなさい。互いに人を自分より勝っていると、謙遜に受け止めることによって相手を尊敬することができます。キリスト者は自分の権利を主張するだけでなく、キリストに対する義務を負っていることを知っているがゆえに、キリストが命をかけて愛された人を優れていると受け止め、尊敬することができる。
次のブロックは「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」とある。今日、勤勉とか熱心という言葉は死語のように思われている面があります。
むしろ、何の努力もしないで「何とかなるさ」と言った方が、かっこよく感じたり、一種信仰深いように見えることもあります。しかし、キリスト者の歩みは真剣さに置いて必死であるがゆえに、他人の人生にも真剣であろうとするものです。それができるのは、贖われた喜びの告白のうちになされる主役の交替の人生であろうと思います。私が主役の人生からイエス様が私の人生の主役である生き方・・・そういう人生は当然、勤勉で霊に燃やされることによって可能となってきます。
12節に「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」・・・いかなる状況に置かれようとも、「ただ、神がいます故に最前はなお来る」との確信による望みです。苦難によって私たちの人生・・・色づけられてしまいやすいものです。しかし、そこでこそ、私たちは色を選ぶことができます。
コップに水が半分しか入っていないととるか、コップに水が半分も入っているととるか・・・そのことによって人生は色づけられます。
希望と忍耐は愛によって生まれ、祈りによって育まれるのです。祈りを通して受け取ることができます。主の慰めを!何が危険であるのかを!
それらのことができるのは、キリストが私のために十字架にかかるほどまでに愛し続けてくださった主の愛を・・・十分に受け取る時に、主の愛が私たちの内から溢れてくるのではないだろうか。・・・そのために、主の愛を受け止める必要がある。