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2012年5月13日:説教概要
選びの恵み」
ヨハネ21:15〜22

神さまの働きに選ばれる時、私たちの持っている条件・・・そういうものはいっさい、おかまいなしに働きのために選び出さることが多くあります。今、ペテロも自分にとって好ましくない奉仕に選び出された。彼は狼狽し、後ろにいたヨハネを見て「主よ。この人はどうですか」と話題をヨハネに向けようとした。私たちが働きに選ばれる時・・・私よりもあの人の方、あの人よりもこの人の方がと思うこともあります。

しかし、神様の選びにおける取り扱いは、私たちの思惑にかかわらず、また人と人との比較によることなしに、その人自身の選びとして独立して行われます。「あなたです」・・・また一方で、ご自分の目的と、人側の条件の全てを知った上で選ばれます。何故、あの人ではなく、私なのか・・・人にはわからない。

しかし、神の選びの恵みと、ばれる者に持っておられる神の恵みを覚えることができます。ペテロは選び出された・・・将来、起こるべき出来事に対して何故、私だけがそんな目に・・・」そして、過去において3度も主を否んでしまった。そのことによって主を十字架に追いやってしまった深い悲しみと傷跡故に「何故、私のような者が」と選びに対して積極的になれない。そのペテロにイエスさまは選びの恵みを与えられます。

15節で・・・「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」と3度も問いかけられた。この問いかけのにペテロを選ばれた理由が・・・ペテロに対する恵みが隠されています。「わたしを愛しますか」と3度尋ねられた。このことは必然的、ペテロが3度、イエスさまを否んだ、そのことを思い起こさせます。彼にとっては胸をえぐられるような痛みを覚えます。しかも、この人たち以上にわたしを愛しますか。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と豪語したペテロ・・・しかし、その自己過信と自信過剰がゆえに主に信頼することを忘れてしまったがゆえの過ち、失敗。彼自身も一人の弱い人間である。そのことを思起こさせるための問いかけ。同じ過ちを犯さないために失敗の原因を忘れてはいけない。

そして2つ目には、取り返しのつかない過ちのために使徒としての権利を失ってしまったという思いがペテロの心を支配しています。そんな意気消沈しているペテロに他の弟子たちの前で「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねる。何もみんなの前で、そんなことを.尋ねなくてもと思います。しかし、他の弟子たちの前で尋ねることによって、使徒としての権威を、立場を公に全面的に回復させられます。

さらに3つ目のこととして、主に選ばれた者の働きにとって何が第一であるのかということを教えられます。奉仕に選ばれる・・・選ばれる条件として何が第一なんだろうか?・・・できるかできないか。能力、人間的な可能性が判断基準の第一となっていることはないだろうか。イエスさまは尋ねられます。「あなたはわたしを愛しますか」・・・ペテロの立派な信仰告白を求めているのではありません。立派な行いを求めているのでもなく、神学的な理解を求めているのでもありません。・・・ただ「あなたはわたしを愛しますか」キリストに対する愛がなければ、どんなに信仰深くても、良い行いのわざがあっても、能力・賜物が豊かであっても・・・その信仰にはいのちがない。イエスさまの愛に迫られ、愛を発露として、そこから溢れてくる・・・それが「わたしを愛しますか」

ペテロはこの問いかけに対して17節で「主よ。あなたはいっさいにことをご存知です。あなたは私があなたを愛することを知っておいでになります。・・・主は私たちの弱さも足りなさも、過去の出来事もすべてを知ったうえで働きに選ばれる。しかも1回目と2回目の問いかけにおいては、アガペーの愛をもって、あなたはわたしを愛しますか、と尋ねられる。

しかし、ペテロはフィレオー・・・人間の持てる愛において愛しますと答えます。彼は主が私を愛してくださったようには、とても愛せない。でも、私の持てる愛において主を愛します。

しかし、イエスさまは3回目に尋ねます。ペテロ、あなたのもてる愛においてわたしを愛しますか。私たちのもてる愛・・・不完全であることを知っておられます。しかし、その.愛を、不完全なまま受け入れてくださった。私たちが選ばれる・・・そのことによって心を深くえぐられる。そのために悲しみを・・・痛みを覚えます。

しかし、私のその傷のため主はもっと深く悲しまれている。そのペテロの傷を癒すために選ばれた。過去の失敗の故に、将来の不安ゆえに「あなたはわたしを愛しますか。」・・・愛しますということは不遜であると考えてしまうのかもしれません。

しかし、まことの恵みがあるところ・・・キリストに対する愛の意識があるのではないだろうか。神の選びの恵みは私に対する励ましではあるが、同時に私が高慢にならないための「くさび」でもある。そして私が従うことの・・・自覚を求めるものでもある。「あなたはわたしを愛しますか」「あなたはわたしに従いなさい」・・・どう答えるのだろうか。