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2012年4月15日:説教概要
岸辺に立たれる主」
ヨハネ21:1〜14

敵意と反感に満ちたエルサレムとは違って、故郷のガリラヤ湖は平和で静かです。彼らはガリラヤで待っていなさい、と言われた。だから待っていた。しかし、いつ来られるかわからない。何をして待っていればいのかわからない。ペテロはじっと待っているのに退屈したのか、食事のことを考えてか・・・「私は漁に行く」と言った時、彼らも私たちも一緒に行くと言って舟に乗った。

しかし、どうして7人しかいないんだろうか。3度もイエスさまを否んでしまったペテロの言うことなんか、といったペテロのリーダーシップに反旗を翻してのことであったのかもしれません。ともかく、ペテロをはじめとする7人は漁に出て行った。しかし、その夜は何もとれなかった。そこには不漁のみがあった。彼らが得たものは疲労と虚しさだけであた。復活の主は、まず嘆き悲しむ女性のもとに現れました。そして知的に疑う弟子のもに現れた。そして今、日常に溺れる弟子に・・・しかも、その日常性の中で、不漁、不作、失敗をけいけんしている、まさにそのところに現れます。

3節にある「その.夜は何もとれなかった」・・・この現実に主は現れてくださった。「夜が明け染めたとき、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」と、あります。主は日常の中に立たれるわけですが、日常に溺れている私たちには、それが主であることをわからない。そこで主は「子もたちよ。食べるものがありませんね」・・・日常に溺れている私たちには溺れている私たちにはイエスさまがわからない。そこでイエスさまは私たちと同じようになられた。自ら飢える者となってくださった。ご自身が欠けた者となってくださることによって、欠けた者を助けてくださるんです。弟子たちはイエスさまの問いかけにこう答えます。「はい。ありません」・・・自らの力で働く、実を実らせる。

しかし、ここで彼らの不足が、不漁が、失敗が明らかになります。私たちにとって失望、絶望でしかない現実です。何もとれない。まさに悲嘆にくれる岸辺です。しかし、その場所が、岸部が・・・イエスさまが立たれることによって輝く場所となるんです。私たちの不漁が明らかになるとき、初めて復活の真理が輝き始めます。不足の現場、岸部に復活の主は恵みの主として立たれるんです。イエスさまは弟子たちに言われます。「舟の右側に網を下しなさい。そうすればとれます。」・・・彼らは言われたように舟の右側に網を下しました。すると引き上げることのできないほどの大量であった。網を下すのは舟の右側です。左側に下しては駄目なんです。右側に下した時・・・大漁であった。何故、左側では駄目だったのか。・・・指揮者がイエスさだからです。私たちの人生の指揮者であるイエスさまの指揮棒に従って歩む。そこに教会の、私たちの大漁の人生があるのでないだろうか。ペテロが「主だ」と聞いて上着を引っかけて、湖に飛び込んだ。他の弟子たちは舟に乗ったまま魚の網を引きながら、ここにいる7人の弟子たち・・・反応は、一様ではありません。別々です・・・愛の人ヨハネは愛のなせるわざとして目ざとくイエスさまを見出します。ペテロは行動派として湖に飛び込み、一刻も早くイエスさまの元に向かおうとします。他の弟子たちは網をひきながら舟に乗って来ます。それぞれ性格の違いがあります。しかし、目指すところは一緒です。・・・イエスさまに向かっています聖書は性格の違いを問題にはしていません。ただ目指すところが私たちの主であるかどうかを問うんです。

9節をみると・・・「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚とパンがあるのを見た」・・・彼らが陸にあがると、すでに魚が焼かれていた。そこでイエスさまは「あなたがたの今とった魚を数匹持ってきなさい」と言われた。「食べる物はありませんか」と問われる主は、先だってパンも用意為されるお方・・・すべてに先立って恵みを備えてくださるお方である。そのお方があなたがたのとった魚を数匹持ってきなさいと言ってくださり、私たちの働の実をも主の働きに用いてくださる。その恵みの主が不漁の岸辺に立ってくださっていることを覚える時・・・そこは輝きに満ちた恵みの場所であることに気づかされる。