2012年4月8日:説教概要
「我らに先立つ復活の主」
マタイ28:1〜10
「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこでお会いできるということです。」御使いの声です。
そして10節では、イエス様ご自身が「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」と言われた。ガリラヤに行くように・・・ガリラヤとは、弟子たちにとって彼らの故郷です。彼らはガリラヤに帰ります。・・・でも、ガリラヤに帰って何をするのか?・・・何をしていいのかわからない。それが現実であるのかもしれません。「もう一度やり直したい」そう思ったかもしれません。
しかし、それはイエス様と共に過ごした生活を、日々をではなく、イエス様と出会う前の生活をやり直したかった。なぜなら、肝心のイエス様はもうおられないんです。ここにはおられない。だから帰る・・・今までのすべては終わってしまった。ここに彼らの心を捕らえたのは「死んでしまったら終わり」という死生観です。帰ろうとしている・・・望みを、希望を持って帰ろうとしているのではなく、よみがえりを信じられないまま暗い気持ちで帰ろうとしている。こういう考え方・・・イエス様の十字架をずっと見続けた女の人たちにもあったように思えます。
1節には「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤとほかのマリヤが墓を見に来た」とあります。マグダラのマリヤという人はイエス様によって悪霊から解放され、いのちが与えられ人生のやり直しができ、イエス様に仕えてきた素晴らしい女性です。その彼女にあっても、イエス様が死んだ時、死んでしまったイエス様を訪ねて墓に行った。それ以外のことは何も考えられなかった。彼女を捕らえているのは死の力です。「死んでしまったら終わり」・・・この死生観は常には死んだイエス様と私たちの間には大きな悩み、問題があります。「誰が、あの墓の入り口にある大きな石を取り除けてくれるのでしょうか」彼女たちと死んだイエス様の間には大きな石が置かれていた。石を取り除けなければできない。石を取り除けなければ油を塗ってあげることができない。死んだら終わりと言う世界にあっては、死んだイエス様と私との間には大きな妨げの、障害の石が置かれている。その石を取り除けなければできない。私には力がない。
だから・・・できないと言った前提条件。どういうものなんだろうか。ひょっとしたら違っているんじゃないだろうか。コロンブスの卵ではないだろうか。こんなことできるんだろうか。出来ることを疑うんです。病気が直ることを疑うんです。どうして出来ないということを疑わないんだろうか。「イエス様がよみがえられた」復活・・・そんなことは信じられないと疑います。そして死んだら終わりということを信じている。
何故なんだろうか?人間の世界、自分の世界を中心に物事を考えているからです。土台・・・前提条件が違っているんです。むしろ、疑うべきは「よみがえらない」「死んだらおわり」「できない」ということを疑う。「光よあれ」と言われたら「光ができた」無から有を生み出すお方がおられるんです。彼女たちはともかく墓に行った。するとあの大きな石が転がされていた。墓の蓋が開いていた・・・墓の中にはイエス様はおられなかった。
6節にはこう書かれます。「ここにはおられません。よみがえられたからです」大きな石が取り除けられたのは、死と言う世界が私たちを飲み込むためではなく、イエス様がよみがえられるためのもの。新しいいのちの誕生。新しい世界の幕開けです。最後の敵である死・・・それは私たちを支配するものではない。すでに死に勝利したのです。
ここに復活の喜び、希望がある。復活されたイエス様とお会いできる・・・どこで・・・ガリラヤで。しかし、墓を出てすぐにイエス様とお会いすることができた。主に対する忠実さゆえに公にお会いできるガリラヤの前に・・・前味として出会ってくださった。そしてイエス様は「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしと会えるのです」と言われます。
もはや弟子とは言わない。兄弟たちと呼んでくださる。しかも、わたしが先に行っているから・・・未知への歩み。不安である、恐れがある。しかし、主が先に歩んでくださっている。ならば、恐れることはない。復活の主は行きなさいと言われる。天の御国に凱旋する前にこの地上で前味としての復活の主との出会いが与えられている。そして遣わされていく場所・・・そこは行くべきところ。