2012年4月1日:説教概要
「裁かれるイエス」
マタイ27:11〜26
「神が神であられるとはどういうことなのか」・・・受難週、イエス様が毎日、最後の力を振り絞るようにしてみことばを語る。弟子の一人であるユダに裏切られ、捕らえられ、裁かれ、死刑の判決を受けて殺される。そこに私たちの「神らしい神のなさり方」が一番よく出ていると言えるんだろうか。そのように受け取ることができているんだろうか。
大祭司カヤパの裁判の席でイエスさまは沈黙されることが多かった。そしてピラトの前では少しもことばを発していない。14節ではこう書かれています。「どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」裁いているピラトが心配するほどです。このままだったら、あなたは罪人として罰せられる。ほかに逃れる道はないではないか。なぜ弁明しないのか。弁解しないのか。ここにはピラトのイエスさまに対する思いが表されています。自分の前に訴えられてきている。しかし、私にはイエスという男、何の罪も見出すことができない。何とか釈放してやりたい・・・
人間、訴えられている通りの罪を犯していたとしても何とかして言い逃れの道を探すものでもあります。少なからず罪を軽くしてもらおうと必死にもなります。しかし、イエスさまは黙っておられる。本来は、ここで話をする権利があるのはほかならぬイエスさまである。ピラトによって代表されるローマの権力も、大祭司カヤパも、彼によって代表されるユダヤの指導的な人々も、みな裁きにふすることのできるお方である。しかし、一番裁く資格のあるイエスさまが黙っておられる。裁かれるままにしておられる。神が神らしくあられると言うのは、常識的に言えば、人々の不正、罪を黙って見てはおられないということであろうと思えます。
しかし、ここには沈黙しておられる神がおられる。沈黙しておられる神の子がどうして神らしいんだろうか。
ピラトは結局、群衆に最後の決断を委ねています。彼にはイエスさまを裁く勇気はなかった。また「この人には罪はない」と言って釈放する勇気もなかった。そこでピラトは一人の囚人を引き出して「バラバを赦すか、イエスを赦すか」と問いかけた。バラバというのは許されざる罪を犯している。誰もがイエスを赦してくれと言うだろうと考えてのことです。しかし、そういうピラトの思惑を知ってか知らずか群衆は「イエスを十字架につけろ」叫び続け押し切ってしまった。
群衆の横暴・・・;罪が深いものである。祭司長だけではない。ローマの権力者だけでもない。みなが寄ってたかってイエスさまをいじめている。群衆の心理、いじめの心理とも重なって残酷でもある。しかし、イエスさまはここでも黙しておられる。ここでも「わたしは、あなたがたのために、どれだけのことをしてきたか」そうおっしゃることができたはずなのに黙っておられる。悔しいと思うほど弱い者のの立場に立っておられるんです。ピラトが尋ねた時に群衆は「バラバを赦せ」と叫んだ。恐ろしいことでもあります。しかし、その恐るべきことを神は許しておられる。神が許されたからこそ、こんなことが起こっているんです。本当の裁きというものは神がなさるべきことでもある。
いや、実はここで多くの人がすでに裁かれていると言ってもいいのかもしれません。キリストを十字架につけろと裁くことで、ことで、自分たちがどんなに恐るべき人間であるかということが明らかにされているんです。その裁きを受けている人々をイエスさまは身を持ってのさばきからかばい、守り切るために、ご自分が黙って裁かれておられる。何のためにか・・・愛しておられるからです。イエスさまを殺した人々を愛しておられた。この人々の姿・・・私たちの姿です。私たちの下で裁かれながら、自らを十字架につけろと叫んでいる私たちを・・・なおも愛し、自らの裁きを受けるために黙しておられる・・・愛のすがた。
これが主の十字架・・・その十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と祈られる。・・・主の十字架わが罪のためなり。受難週・・・イエスさまの愛を心に刻みながら自らの罪を悲しみ、まことの神らしいあり方に感謝をもって歩むことができればと願わされます。