礼拝説教概要
戻る
前回の説教
2012年3月25日:説教概要
主がお求めになる」
第1サムエル1:19〜28

以前、献児式が行われた時、「子供を神様にささげるなんて親の身勝手すぎる。子供は親の所有物ではないんだから」と言われた方がいた。勿論、その方はクリスチャンです。子供の教育に関して放任主義をとるというのが彼の持論でした。

献児式の意味は信仰を持っている両親が神に恵みによって与えられた幼子を神にささげることを願って行うものですから、彼の言うことは何か釈然としないものを感じながらも、どこか理にかなっているように感じます。そこで、サムエル記を通して子供をささげる意味について再度、考えてみたいと思います。

まず17節、18節を見ると「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」・・・「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」とあります。・・・ならば、以前の顔はどうであったんだろうか。7節には「ハンナは泣いて食事をしようともしなかった」・・・以前は彼女はいらだたされ、どうしようもない問題で苦しみ、悩みと悲しみの中に暮らしていた。そんな時、「あなたの願った、その願いを神様がかなえてくださるように」と祈った祭司の一言によって苦しみが喜びに変えられた。ハンナには子供がいなかった。それが彼女の苦しみの、悲しみの原因であった。子供さえいれば・・・それが彼女の願いであったように思われる。ところが11節にあるように「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」男の子を与えて下さるなら・・・その子を一生ささげます。ハンナは祈りの中で変えられています。子供を与えられることの意味が変えられているんです。

「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」・・・この言葉は二通りの意味をもっています。一つは子供を与えられると確信した者の平安です。もう一つは子供をささげる決心による平安です。つまり、子供が与えられることが一番重要なことではなく、「子供が与えられさえすれば」ということから「たとえ与えられなくても」という信仰に変わっています。神様が人の願い、求めに応じて下さったと言うだけなら、生まれてくる子供を手元に置いておいてもよかったのです。

そして、子供が与えられないことによって第二夫人を持つという当時の人間の常識以上には出ることのなかった夫、エルカナの信仰が以前のようではないハンナの顔によって変えられていきます。ハンナの誓願を自らの誓願にするまでに至っています。ハンナの子どもをささげるという決意、そこから来る平安・・・そのことによって、その喜びによって家族の者が変えられていった。願ってもないほどの祝福がもたらされた。しかし、かわいいざかりの幼子を手放す・・・それは彼女にとってあとには何も残らないんじゃないだろうかとも思う。しかし、そうではなく、彼女に残されたのは大きな祝福、恵みであった。神への真の信頼に生きるという大いなる祝福を授かったのです。引き離すという犠牲は自己満足でもなく、ささげてしまったら何も残らないような悲壮感に満ちた献身ではなく、子供をささげるというのは、主にあって親と子の関係が強く結び付けられるものです。2章の19節に「その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった」とあります。幼子は母親との交わりの中にあって成長していっています。子供をささげるというのは、その親の・・・子供が神と共にいることが最善であると考えることゆえの願いであり、親そのものの献身を表すものである。子供のすべてを神に委ねるということです。たとえ、それが時には親の希望に反することであったとしても・・・

ハンナとエルカナの夫婦は「自分たちは幼子をささげた」と思っています。私たちの側から何かをした。自分をささげた。献金をした。奉仕をした。・・・しかし、聖書には2章の20節には「主がお求めになった」と書いています。主がお求めになったから夫婦は幼子をささげることができた。幼子をささげることは、夫婦にとって犠牲にちがいありません。しかし、犠牲を犠牲で終わらせないところに信仰の祝福がある。・・・なぜなら、主がおもとめになられたから・・・ささげることができたのですから・・・。