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2012年3月18日:説教概要
ユダに対する主の愛
マタイ26:47〜56

「見よ。12弟子のひとりであるユダがやってきた」と47節に書かれています。

12弟子の一人であるユダがイエスさまを売り渡そうとしてやってきた。イエスさまは最愛の弟子に裏切られ、捨てられ、たった一人で重い重い十字架を背負わなければならなかった。.56節にはそのことを「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて逃げてしまった」と書いています。ここにはイエスさまの深い苦悩が描かれています。

ユダの罪・・・どういったものだったのでしょうか。勿論、イエスさまを裏切ったことです。しかし、表面的には弟子としてイエスさまに近づいて「先生。お元気ですか」と口づけをしています。いつもの挨拶です。表面的には弟子としての礼儀を尽くしているようにさえ見えます。しかし、その背後には口づけを合図として、「この男がイエスだ。この男を捕らえよ」といったことを知らせる裏切りといった恐ろしいことが行われている。まさに罪である。罪というものはアダムの時から自分を「包み隠す」といった要素をもっている。自分を知られないように・・・

そのとき、一人の人が・・・ペテロが剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とした。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と言った言葉を自らの死を賭けて実行したのかもしれません。しかし、正直、ペテロは怖かったのではないだろうか。勇気とは違って弱さの表れであったのかもしれません。このペテロの行動に対して52節で「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」とおっしゃられた。多勢に無勢といったことではなく、イエスさまは12軍団以上の軍隊をいつでも呼べる。しかし、天の軍勢をもって勝利する道をも拒まれた。なぜ・・・拒まれたのか?これはイエスさまご自身、武力を用いない。武力によっては真の救いはあり得ない。武力によっては真の平和はあり得ない。そしてイエスさまは、そのことによって捕らえられた。つまり、イエスさまは剣と棒を捨てて捕らえられる道、殺される道・・・その道をお選びになったという事実です。それがこの場所で、ユダの口づけを受けられた時に語られている。その御思いを知ることなしには、ユダの裏切りの本当の意味も知ることもできないのではないだろうか。

口づけ・・・愛と尊敬と交わりとしての口づけ。ユダはごくありふれた日常の親しい挨拶を、今・・・闇の中でイエスさまに行った。自分が裏切る者であることを誰にも知られず、他の弟子たちにも当のイエスさまにも尊敬と交わりを失わずに裏切りを達成しようとしている・・・しかも、絶対に仕損じることのない方法で・・・。

このことは何もユダに限ったことではなく、私たちの日常の陰に隠れて平然とイエスさまを十字架に追いやっていることはないだろうか。

イエスさまは、そんなユダに「友よ。何のために来たのですか」と言われた。友よ・・・「その友のために命を捨てるに勝る愛なし」と言われた、その愛をもってユダに友よ、と呼びかけられた。わたしはあなたを友と呼びます。あなたは自分で何をしているのか気づいていないのかもしれない。でも、わたしは友と呼びます。悔い改めを待っておられる。

イエスさまはユダの思いのすべてを知ったうえでユダの口づけを受けられた。そして捕らえられ、十字架に死んでくださった。ユダは会計係としてごまかしをしていた。しかし、そのことが裏切りの本当の理由なんだろうか。そうではないように思えます。自分の描くメシヤ像、宗教観・・・私にとっての救い主はこうあるべきだ、こうでなければ・・・そういったものにイエスさまを当てはめて解釈しようとしたのではないだろうか。ダビデのごとく政治的、民族的なメシヤとしてのイエスさまを・・・偏狭な愛国心、自己流のキリスト解釈・・・私たちの信仰を誤らせるものでもあります。最後の晩餐の席からユダが立ち去った時、ヨハネの福音書では「時は夜であった」と書いています。そのユダに対して「友よ」と語ってくださる主の愛・・・それほどの愛をもって主はユダを待っておられる。