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2012年3月4日:説教概要
イエスの変貌」
マタイ17:1〜8

私たちが聖書を読む、みことばに触れる時にも、そこには必ず神の目的が語られています。それがすぐにわかる場合もあれば、わからない・理解できない場合も、また今はわからずとも、後になってからわかるということもあります。

今日の聖書の箇所、そこにはどういう目的があるんだろうか。

16章の後半の箇所では、ペテロがイエスさまを「あなたはメシヤ、キリストです。あなたは生ける神の御子です」と告白しています。それに続いてイエスさまはご自分で人々から苦しみを受け、殺され、3日目によみがえると予告された。

その後の出来事が今日の箇所です。最初に「それから6日たって」と書かれます。十字架とよみがえりのことを話されてから6日がたった後・・・6日を経て7日目ということです。旧約聖書を見ると、神がご自分の姿を現す時に、そのための6日の準備を求められたことが書かれています。出エジプト記の24章にはこう書かれています。「モーセが山に上ると雲が山をおおっていた。7日目には主は雲の中からモーセを呼ばれた」6日の準備がモーセに求められています。

イエスさまは、その6日の後にペテロ、ヤコブ、ヨハネといった3人の弟子だけを連れて高い山に上られた。これは3人の弟子だけを連れて行ったというだけの意味ではなく、イエスさまと3人の弟子たちだけという意味が強調されています。

イエスさまがお一人で山に上る、そういった時にも使われています。そこでは「ひとりだけ」という意味でもあろうし、その意味を強調して「人から離れて」といった意味合いをも持っています。イエスさまが山に上って祈りをなさる。どうして一人だけ上られたんだろうか。神にお会いするためです。これまで、どんな親しい生活をしていた弟子たちといえども、この山の上のイエスさまと父なる神さまとの交わりを見ることはできなかった。しかし、今は違います。少なくとも3人の弟子は,この主のただ一人の山の上の体験にあずからせていただいているんです。この3人の弟子たちの前でイエスさまの姿が変わった。「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」・・・しかし、ここで変貌とは言うものの、イエスさまがここで別の存在にお変わりになったという出来事が語られているわけではありません。これまでは普通の平凡な人であったのに、急に神の御子におなりになったと言うのではないんです。そうではなく、もともとそうであった。これまでも絶えず父なる神と交わりをしておられた方が、同時に弟子たちと毎日、ほこりにまみれた、寝る暇もないくらい伝道に、愛の奉仕に励んでおられるお姿・・・それは見慣れたものであった。しかし、一緒にいながら弟子たち、たとえばペテロは、この人はただの人ではない。生ける神の御子である。そのことをわかっていた。それを「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白した。それをイエスさまご自身喜ばれた。その後、6日の準備の後にご自分の姿が変えられるのを弟子たちに見せられた。そのとき・・・神の声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」・・・1週間前のペテロの告白「そうだペテロ、あなたの言うとおりだ。これはわたしの愛する子だ」・・・ペテロが言った告白を神様が裏打ちしてくださった。保証してくださった。ここに変貌の意味があるように思えます。これからイエスさまは山を下り、またもや人々の不信仰に巻き込まれます。そこで苦しみ、悩み、十字架につけられる。しかし、ここで神の子としての姿を弟子たちに示すことによって弟子たちの心にひとつの光を灯されるんです。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ、彼の言うことを聞きなさい」

わたしの愛する子・・・王の即位の歌である詩篇2篇で歌われています。そしてイザヤ書42章では権威ある王としてではなく、しもべとなって人々の罪責をとその悲惨さを負うものが現われる預言していることばの1節でもあります。わたしがあなたがたに与える王,あなた方に仕えて、しもべのように仕え、愛し抜いて生かす王・・・この王に、イエスに聞きなさい。ローマ書では「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」・・・

そして聞くということは従うということを意味することばでもあります。主の変貌・・・それは私たちの信仰の告白を受け入れてくれたことの保証であり、私たちを生かすのは彼の語ることば・・・そのことばに従いなさい。

そこに私たちの救い、祝福があるとの約束である。