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2012年2月26日:説教概要
この世を愛する神」
 ヨハネ3:16

ヨハネの福音書では「世」というのは、神に背を向けている、敵対している世、世界・・・私たちすべてを表していますが、神は御子イエス・キリストを与えるほどに、そういう世を、私たちを愛された。私たちが「愛する」という言葉を使う時、好感のもてる、関わりをもった、その結果・・・愛する。つまり、愛が結果であることとして使います。しかし、ここで言われているのめに「愛ありき」・・・この世を愛してくださった。その結果、御子をこの世にお与えくださった。

なぜか? 私たちが滅びの道を歩まないために。永遠のいのちをイエスさまを通して手に入れるために・・・それほど神様は私たちを愛してくださっている。

日本には「八百万の神」と言われるように、たくさんの神々があります。そんな中でも、「私は宗教など持っていません」と言われる方や「私は無神論者です」と言われる方もおられます。そういった方々とお話をする中で、どこかしら神を持っているような気がします。生命の危険、助けを求める時に「神様、助けてください」と祈ります。しかし、そういった方々・・・ひとりひとりがいのちの際に立った時、どういう神を思い起こすんだろうか。どういう神に「祈るんだろうか」そういった方々とお話をするときに・・・「私たちが今、住んでいる世界を造られた神様はおられると思いますか」と尋ねると、「いると思うな。いるような気がする。」と答えられる方は少なくはありません。

宇宙の全てを造られ、支配しておられる神を信じる人は結構多いんです。「それじゃ、この神様があなたを愛しておられるのを信じますか」と尋ねると・・・「それはないだろう。わからない」とほとんどの人が答えられます。・・・なぜなんだろうか・・・宇宙は無限で広大です。そういう無限の広いものを神様は造られ、支配しておられる。それはわかる・・・でも、この私、宇宙から見ると何とちっぽけな存在でしかない。こんな私を、あの偉大な神様が関心を持っておられるなんて、目を留められるなんて、とても信じられない。しかし、これはものの大小と価値観と言うものを混同してしまっていることによって生じる結果です。

創世記の初めに天地創造の経過が描かれています。1日目から3日目にかけて宇宙、大空、海、陸地と大きな器が造られ、4日目から6日目にかけて、その器に入れられるべき中身が造られています。そして一番最後に人間が造られています。最初に器が造られ、その後に中身が、そして最後にすべての環境が整ってから人間が造られている。これは器が大切なのではなく、器の中に入るもの・・・それも、人間が大切なものとして造られているということです。

イザヤと言う預言者は「わたしの目には,あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と語っています。他の誰かがあなたを、どのような目でみようとも、あなたをどのように判断し、価値づけようとも、わたしの目には、あなたは高価で尊い・・・かけがえのないものである。

そして「神様は私を、私たちを愛してくださっている。」そのことを信じられないとする人たちにとって、もう一つ共通するものがあります。それは「神様が私たちを愛してくださっているなら・・・どうして、こんなことが起こるんだ」ということです。私たちには多くの苦しみ、悩み、悲しみ、不幸があります。その時に、どうして・・・と思う。正直言ってわからないことが多くあります。でも、その時に考えなければいけないのは、それは神の責任か、人間の責任かということです。神様は人間を造られたときに自由に愛し、交わりを持つことができるようにと機械的にではなく、自らの意志で自由に選び取る自由意思を与えてくれました。

そんな自由を与えたから神に責任があると捉えるか、それとも神の愛を感じるのか・・・環境が悪い、両親が悪い、社会が悪い、子供が悪い・・・あげく神が悪いと責任を転嫁してしまう。そんな私たちをもあわれみをもって、その結果を最小限に留めてくださっている。ただ、あわれみのゆえに・・・愛ゆえに・・・。

神は神に逆らっているこの世を愛してくださっています。まだ私たちが罪人であり、イエス様に敵対して十字架につけてあざけっている時にあってさえ、あわれんで愛し続けてくださっている。その愛を受け止めることができればと願わされます。