礼拝説教概要
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2012年2月19日:説教概要
大胆に神のことばを語る」
 使徒4:23〜31

ヨハネとペテロは美しの門で一人の足の不自由な人を癒した。そのことによって大勢の人々がキリストを褒め称えたので、ユダヤの最高議会であるサンへどリンは、彼らに今後絶対イエスの御名によって語ったり、教えたりしてはいけないと命じた。ところが釈放された彼らは23節をみると「ふたりは仲間の所へ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」・・・彼らは自然と仲間の所へ行った。この事実は、彼らの性格と生活に教会生活が染みついていて、3度3度の食事のように、仲間の所へ行くということが生活の必需品となっていた。彼らは捕らえられ、裁判にかけられ、辱められ、苦しめられた。しかし、ひどい目にあったとか、苦しめられたとか、そういう話はしていない。彼らが報告したのは信仰の勝利の報告である。どんなに苦しめられても主が共にいてくださった。そのおかげで大胆に振る舞うことができた。その報告を聞いた仲間は24節で「みな、心を一つにして、神に向かい、声をあげて言った。」・・・彼らは神を賛美して祈った。・・・彼ら全員が生活として神をあがめ、祈ることが身についていた。ここに教会のあるべき姿、神の家族としての交わりが描かれているような気がします。

この交わりと祈りの中から、絶対的権威を誇っていたサンへどリンの議会の禁止した命令に真っ向から反対して「神のことばを大胆に語りだす」結果が起こった。教会が心を合わせて祈った・・・そのことによって聖霊に満たされ、導かれ、語りだした。彼らが聖霊に満たされるほどの祈り・・・その内容は大きく分けて3つの特徴があります。

一つは、神の絶対的な主権を認める祈りです。24節で「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です」・・・自分たちが創造者なる神の奴隷である。神は私たちを隷属させている主人であると、はっきりと神の主権を認めています。今、彼らに襲い来る迫害さえも主のご支配にあること、そして主はどんな権力者よりもはるかに勝った主権者であることを認める信仰の告白でもあります。

そして特徴の二番目は「みことばに基づく祈り」であったということです。

自分たちの身に起こったことの一つ一つをみことばに照らして理解しています。.今日の1日の出来事・・・聖書に照らして考えていくとき、.生活が偶然によって成り立っているのか、運命によるのか、それとも神の摂理の中に計画されたものであるのかが見えてきます。今、ペテロたちに起こった迫害は偶然に起こったものではなく、また突然起こったものでもない。1000年前に詩篇2篇の中に預言されていることである。そのことが事実として今、起こった。

28節には、これらのことが「あなたの御手とみこころによって、あらかじめ御定めになったことを行いました」

イエスさまが十字架にかけられることは神の定められたこと。十字架は苦しみである。しかし、それは同時に神の勝利でもある。何故、苦しみが神の勝利なのか・・・それは十字架に復活の喜びが続くからです。彼らはただ祈ったのではありません。みことばに照らして、すべてが神の主権のもとに行われていることを確信するがゆえに、今、主に仕えるがゆえに迫害されていることを・・・その後の勝利を確信しているんです。

そして彼らの祈りの特徴の三つ目は、宣教の前進のための祈りであった。

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」・・・みことばを語るのを禁じられたにもかかわらず、積極的にみことばを語ることを求めています。

私たちの祈り・・・時として、「任せる祈り」と「求める祈り」が逆転していることはないだろうか。「神の国とその義とをまず求めなさい。そうすれば、それに加えて、あなたがたの必要なものはすべて与えられます」・・・まず求めるべきものを求める。添えて与えられるものは神にお任せする。ただ、私の現状を知ってください。ご覧になってくだされば、それで十分です。