「聖なる交わりの中へ」
出エジプト3:1〜6
2章の出来事をみると、モーセは熱血漢であったように思われます。自分の同胞が苦しめられているのを見るに忍びなく、何としても同胞を救い出さなければという熱心、正義感をもっていた。何としても救い出さなければと一生懸命であった。
しかし、今、起こっていることが何を意味するのか、どうしなければいけないのか、そのことを深く考えるよりは・・・思い詰めている。そして衝動的に動いた。その結果は破局・・・肝心の同胞が彼を拒否してしまった。何故、彼は同胞から拒否されてしまったんだろうか。苦しんでいる人たちの苦しみは理解していた。しかし、その苦しみの中にいる人たちの苦しみを何一つ味わっていなかった。苦しんでいる人たちの上の方から、横から私が助けてやるといった状況。
言わば経験の伴わない熱心であった。経験のないことがいけないということではなく、彼らを救おうと思いながらも苦しみの意味を知らないというところに拒絶されるという理由があったのではないだろうか。彼はそのためにミデヤンの地へ逃れ、イテロと共に住むことを決心します。2章の21節ではそのことについて「思い切ってそうした」と書かれています。「こんなはずじゃなかった。どうして、こうなってしまったんだ」しかし「やむを得ない」・・・そうした気持ちを含んでの「思い切って・・・」今の境遇を焦り、苦しみ、不遇に泣きもした。しかし、だんだん状況に順応し、慣れてきて自分に言い聞かせるんです。「仕方ないじゃないか」そうは思っても寂しい。もっと何かがという思いが依然として残っている。同胞のため一生懸命に熱心にやった。その結果の挫折・・・そんな状況に打ち勝つことができるのは、「自分はそんな器ではない。一人でどんなに力んだって・・・」と言った一種のあきらめ・・・22節には子供に「ゲルショム」・・・.寄留者という名をつけています。寄留者・・・自分はコンナところにいるべき人間じゃない。いや、いるべきだとしても寄留者としているんだ、と自らを納得させようとしながら、そんな思いを引きずりながらもホレブの山にやって来た。
見ると柴がもえているではないか。しかし、柴は一向に燃え尽きない。不思議な感動を覚えながら、柴に近ずこうとします。突然、燃える柴の中に「モーセ、モーセ」と自分の名を呼ばれる神の声を聞いた。彼は即座に「はい。ここにおります」と答えた。神の呼びかけに即座に応える素直さ・・・それと同時に、この時、モーセはどれほど神様のことを思っていたんだろうか。モーセは40年間、ミデヤンでの羊を飼う生活を送っていた。その中でどれほど神様を意識し、共にいてくださるとの実感を持っていたんだろうか。どれだけ、彼の全生涯が神様のご支配のもとにあると考えていたんだろうか。「若い時はいろいろあった、しかし、今はこれが私の人生だ」・・・そう思っている。決して神様の方を向いているわけじゃないと思います。しかし、驚くべきことは、そんなモーセを神様はずっと見守り続けていてくださったということです。ここに、神の深い憐れみと忍耐が・・・選びの確かさがある。圧倒されてしまいます。その神様とホレブの山での出会いの経験・・・この経験は私たちの現実の生活の中にあって、神の存在を感じられない、そういう中にあっても、なおかつ見えないところで為されている神のみわざを覚えることのできる劇的なもののようにも思えます。私たちが教会に来ることも、礼拝の民とされていることの意味も・・・ホレブの山での出会い、呼びかけを聞くことにあるのではないだろうか。
呼ばれたモーセは柴に近ずこうとします。しかし・・・神は仰せられます。「ここに近ずいてはいけない」呼ばれたのに近ずいてはいけない。どういうことなんだろうか。このことは、本当は近ずけるためではないだろうか。神様に近ずくということは何の備えもなしに近ずくということではない。私たちを引き寄せてくださるということは、聖なる交わり・・・無限の愛の中に引きいれてくださる。そのときに、日常の考え方や感じ方、この世の延長線の上で出会うのではない。
聖なる臨在の前に出る。そのために「あなたの足のくつを脱げ」・・・このことは、今まで歩いてきたそのままでと言うことではなく、本当に汚いものを取り去っていただかなければならない。イエス・キリストの十字架の恵みの中に召しいれられる。そのことによってのみ、聖なる神の前にたつことができる。